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ハイデガー「存在と時間」を木田元の「ハイデガーの思想」を元に解説します。

ハイデガーの「存在と時間」は未完であって、木田元はこの未完部分を推測しようという。

ハイデガーの「存在と時間」は序論に目次が存在していて、以下のようになっている。

第1部  現存在の解釈と時間の解明
 第1編 現存在の基礎分析
 第2編 現存在と時間性
 第3編 時間と存在
第2部  存在論の歴史の現象学的解体
 第1編 カントの時間論について
 第2編 デカルトの「我あり」と「思う」について
 第3編 アリストテレスの時間論について

そして実際には第1部第2編までしか書かれていない。だから「存在と時間」は未完だといっても、その未完レベルはかなり高い。だいたいにおいて、大事なことは後半に記されるわけで、木田元といえども「存在と時間」の全体を推測しようというのは大丈夫かとは思う。

木田元の議論についていくためには、「存在と時間」なる哲学書はどういうものかというのを自分なりにでも知っておく必要がある。
「存在と時間」という題名だけあって、この本は存在とは何か、時間とは何か、ということについて書かれている。存在とは何か、については、まあ何か言い様もあるかとも思うのだけれど、時間とは何か?って、いったいこれどうするよ? 常識的に考えて、いくらハイデガーでも、時間について評論しようもないだろう。

とまあこんな心構えで「存在と時間」を読んでみる。

3分クッキングでもないのだけれど、はい読んでみました、いろいろ考えてみましたということで。
まず存在について。
ハイデガーは、人間というのは「世界内存在」だという。人間とは世界の中に投げ出されてあるという。だから存在とは、人間に前もって与えられている何かだというわけだ。
消極的な考え方のように見える。自由意志はどうなっているのか。人間は意志によって世界を変えることができる、なんて建て前もある。
ところが人間の脳においては、意思を発動する0.2秒前にシナプスの発火が認められるという研究がある。意思によってシナプスが発火するのではなく、シナプスの発火過程において意思が自覚されるだけなんだよね。自由意志だと思っているものはすべからく脳のシステムによって自由意志だと思わされているだけだという。
実はこれ当たり前の話であって、意思によってシナプスが発火したら、それはただちにサイコキネシスだから。
そう考えると、ハイデガーの言うように、人間とは世界の中に投げ出されている「世界内存在」だという説明は説得力がある。

次に時間について。
ハイデガーは「存在と時間」の中で、本来的時間体制と非本来的時間体制があると言うのだけれど、なんだかちょっとゲルマン的道徳臭がする。
例えばジャック・デリダは、人間において存在認識が差異化することによって現在、過去、未来という時間認識が発生する、というのだけれど、正直コイツ何を言っているのか分からない。分からない事を差異化とか言ってしまったら、分からないままだろうと思う。
自分で勝手に考えてみる。
懐かしいという感情が存在したりする。子供のころ慣れ親しんだ情景を時間がたって体感すると懐かしいと感じる。懐かしいという、あの一種安心するような感覚は何なのかという。記憶が勝手に呼び起こされて、あったかい気持ちになる。結局、その情景の中において、過去と未来とがある程度確信を持ってシステマティックに再現されるからだと思う。
ところが、現在過去未来というものが厳然と存在していて、故に人間は時間差異を認識できると考えることも出来るのだけれど、人間の時間認識システムによって私たちは時間的差異が存在すると思わせられているということもありえる。
なにせ「時間」という怪物が相手だし。「存在」について考えるよりもフレキシブルにならなくては、なんて思う。

とここまで「存在」と「時間」について考えてみた。これを予備知識として、木田元の「ハイデガーの思想」における「存在と時間」の未完部分の推論に付いていってみたいという。

ハイデガーの「存在と時間」目次、第1部第3篇に「時間と存在」とある。木田元によると、ここでは時間体制と存在体制の関係性について書かれる予定であったという。時間と存在との関係性って、これが分かったら大変なことだよ。人間は存在の方は直接いじれないとしても、時間の方はいじれるかも。
すなわち、ある時間認識に基づいて、人間は「世界内存在」として世界の中に投げ出されているわけだ。身近な表現をすると、私たちは時代の中に投げ出されている。自分の時代認識を自分の意思で直接変えるというのは不可能だろう。ところが、自分の現在の時間認識を変える事によって、自分の時代認識を変えることは可能かも。
これが出来たら自由意志の復活だろう。サイコキネシスの不存在により自由意志は否定されていたのだけれど。

ところがハイデガーは、時間認識に対する介入の可能性を諦めた。木田元によると、これをハイデガーの転回(ケーレ)という。ここをケーレしてしまうと、「存在と時間」の続きは書けなくなるだろう。

時間認識にも介入できない、存在認識にも介入できない、となると、後はある時代の時間認識と存在認識を受け入れて、その世界を内側から見るということしか出来なくなる。別の世界を内側から見る手法を現象学という。内側から見た世界を時代順につなげていけば、現象学的歴史学ということになる。ハイデガーがそのケーレの後に行ったことは、現象学的哲学史だった。
木田元も、ハイデガーの現象学的哲学史の内容について詳細に語っている。これはこれで非常に興味深いのだけれど、やはり「存在と時間」のあのインパクトはないよね。現象学的歴史学というのではヘーゲルと変わらないだろう。



ハイデガーの思想 (岩波新書) [ 木田元 ]
ハイデガーの思想 (岩波新書) [ 木田元 ]






木田元の「現代の哲学」を読みながら近代について考えてみます。

19世紀というは歴史の上を理性が覆っていた時代でしたね。

理性と論理と科学が人間をはるか高みにまで持ち上げるであろう、ということが信じられていました。ヘーゲル哲学なんて人間の歴史を全て包み込む巨大な体系を構築する事を予告する哲学みたいなものです。今から考えるとファンタジーみたいなものです。

第一次世界大戦以降からでしょうか、空虚な理性哲学ではなく人間存在そのものを題材にした哲学が現れてきます。それがニーチェやキルケゴールやハイデガーなどの実存哲学なわけです。私も20年ぐらい前二十歳くらいのときはよく実存哲学と言うのを読みました。「存在と時間」とか「ツァラトストラ」とか。

人間存在そのものの哲学なんていいますが、人間存在というものを突き詰めれば結局「心の仕組み」みたいなことに行き着いてしまうのですよね。どんなにサルトルなんかが「心の仕組み」について偉そうなことを発表したところで、科学的臨床実験で否定されたりするわけです。確かに、言語とは何かとか、サルと人間の違いは何かとか、自分と他人の関係は何かとか、実存哲学には興味深いものもあるのですが、19世紀のあのヘーゲルの歴史と人間理性をを混ぜ込んで意識は神のいるあの天を目指す、みたいなとんでもないワクワクする大風呂敷というものはもうないですね。

日本のあの太平洋戦争も、19世紀理性哲学の最後の花火だったのかもしれないです。

ミネルバのフクロウは夕暮れに飛び立つ 
哲学者は歴史が変化した後にそれを記述して、そして凡人はその記述を読んで歴史が変化した事を知るのです。

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