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日露戦争の時の総理大臣は桂太郎だ。この後、西園寺公望-桂太郎―西園寺公望―桂太郎と続く。この明治34年から大正2年までを桂園時代(けいえんじだい)という。

第3次桂内閣の後の総理大臣は海軍大将山本権兵衛(やまもと ごんのひょうえ)をはさんで大隈重信。その後は陸軍大将寺内正毅(てらうち まさたけ)をはさんで原敬。

原敬は大正10年11月4日、総理在任中に暗殺された。

これは明治34年から大正10年までの歴史的事実だ。そしてこの歴史的事実に何らかの歴史的必然性というものはあるのだろうか。

それはあるのかもしれないし、ないのかもしれない。必然性があるとしても、それは進歩かもしれないし堕落かもしれない。

文久3年生まれ、明治大正昭和を生き抜いた大言論人徳富蘇峰はこのように語る。

「大東亜戦争は世界水平運動の一波瀾であった。いってみれば、明治維新の大改革以来の、継続的発展であり、いわば明治維新の延長であるといっても差し支えない。いやしくも一通りの歴史眼を持っているものは、この戦争は全く世界の水平大運動の、連続的波動であったことを、看過することはできない。しかるにその水平運動は、運動の拙劣であったために、水平どころか、さらに従来の差別に比して、大なる差別を来したることは、所謂事志違うものというの外はない。即ち水平運動の仕損じである、失敗である」

徳富蘇峰は明治維新から太平洋戦争にいたる時の流れを、世界水平運動の継続的発展である、と言っている。このラインに沿って、明治34年から大正10年までの政治的展開を考えてみようとおもう。

日露戦争は当時の日本なりの総力戦だった。

北一輝は日露戦争の帰還兵に、「一将功成りて万骨枯る」と書かれたビラを配ったという。さすが総力戦思想のカリスマだ。明治国家で虐げられている一般兵士がいくら命を賭けて戦っても、名誉は支配者層に回収されてしまうだろう、というわけだ。

分裂した社会状態では総力戦を戦うことはできないということをヨーロッパ列強が明確に理解したのが第一次世界大戦(1914から1918年)だ。日露戦争終戦は1905年だから。

日露戦争を経験した日本人は、より厳しい総力戦を戦うためには日本のさらなる一体性、さらなる水平化が必要であるという「ぼんやりとした観念」を持っただろう。

桂太郎は長州奇兵隊出身であり、山県有朋の子分格だ。明治維新以降の藩閥体制から、日露戦争後に民権思想への譲歩として、衆議院の最大政党である政友会の総裁「西園寺公望」に大命が降下した。

しかしこれは譲歩といっても微妙な譲歩だ。政友会という民党の党首が総理になったからといって、直ちに政党政治が行われると言うわけではない。政友会は衆議院の政党ではあるのだけれど、政友会党首西園寺公望自身は衆議院議員ではない。

譲歩と回収が繰り返す。

そして、桂-西園寺-桂―西園寺―桂 と続いた。

藩閥勢力と政友会はグルなのではないかという認識が広まってきた。第二次西園寺内閣の後、第三次桂内閣が成立した時に、いいかげんにしろいつまでやるんだと、都市民衆が怒りだした。

本来は民衆デモ程度は政変には至らないのだけれど、当時は日露戦争後の不況だったんだよね。長州閥―陸軍、薩摩閥―海軍、政友会―内務省、という三つ巴の予算分捕り合戦が展開されていて、桂太郎はこれを調停することができなかった。桂新党を創って衆議院を解散しようと思ったのだけれど、反桂大衆運動のせいで十分な党員を集めることができなかった。

第三次桂内閣は二ヶ月で崩壊した。

民衆運動が直接藩閥内閣を倒したわけではないのだけれど、支配者階層に亀裂が生じている場合は、民衆運動も有効に政変となりえるということが証明された。

第三次桂内閣の後は海軍大将山本権兵衛内閣となった。今までは陸軍-政友会内閣だったのが、海軍-政友会内閣に変わっただけで、桂園時代(けいえんじだい)と代わり映えしない。

海軍内閣に都市民衆はプンプン丸かと思えばさにあらず。大衆運動は急速に収束した。

結局どういうことなのかと言うと、民衆は時代に不満なのだけれども、いったい何が不満なのかよくわからないから、運動が継続しない。徳富蘇峰的に言えば、社会の水平化を民衆は望むのだけれど、いったいどうすれば日本社会が水平化するのか分からないということになる。

当時は現代と異なり、最低賃金、年金制度、失業保険、八時間労働制、などはなく、これらの権利観念の根拠思想もあいまいだった。当時の日本は極めて自由主義的な世界だった。

山本権兵衛内閣はよろしくやって海軍の軍事費を増やすのかと思われたときに、とんでもない爆弾が爆発する。

シーメンス事件である。海軍ぐるみの汚職事件だね。

この状況で海軍補充費7000万円予算が衆議院を通過。怒った民衆が国会議事堂を囲む中、この予算案が、なんと貴族院で否決。両院協議会が不調に終わり予算不成立となり山本権兵衛内閣は大正3年4月16日総辞職した。

第三次桂内閣、第一次山本内閣と立て続けに民衆運動が倒閣に力を発揮した。しかし一般国民の意識が明確に政治を左右するようになったとはいえない。支配階層に統合性が欠けている場合、民衆運動を味方にすれば敵を追い落とすのには有利だった、というレベルの話だろう。

日露戦争後の日本は、国力を傾けた戦いに勝ちながらも賠償金を取れなかったことにより、財政的に極めて厳しい状況だった。陸軍、海軍、内務省の三者すべてを満足させるような予算を組むことはできなかった。結果、足の引っ張り合いみたいなことになって、結果民衆運動が利用されるということがありえた。

明治維新以降の日本の歴史は世界水平運動の継続的発展であるという歴史観からすれば、当時の日本は奇妙な隘路に嵌まり込みつつあった。

山本権兵衛の後は第2次大隈内閣となった。大隈重信は衆議院第二党の立憲同志会の支援を受けることが期待できたし、陸軍と海軍に予算獲得の保障もして組閣した。しかしそもそも、陸軍、海軍、内務省のすべてが満足する予算を組むことは不可能だ。それができるのなら、桂園時代(けいえんじだい)が存在する必然性はないし、第3次桂内閣も第1次山本内閣も倒れなかっただろう。

そして第2次大隈内閣はどうなったのだろうか。

これがなんと神風が吹いた。

第一次世界大戦の勃発である。

世界大戦勃発の8ヵ月後、大正3年12月25日大隈重信は衆議院を解散し大勝した。この第12回衆議院議員総選挙では陸軍や海軍の予算削減は問題にならなかった。さらに大隈重信はこの選挙期間中に袁世凱に対し悪名高い対華21カ条要求を行っている。

日露戦後から第二次大隈内閣まで、明治38年から大正4年まで、この時代をどう考えるか?

シーメンス事件発覚から1年ほどしかたっていないのに大正政変のエネルギーは収束した。それほど世界大戦のインパクトは大きかったのだろう。

大正政変というのは古い時代からの解放の願望だろう。これを徳富蘇峰のように社会水平化運動の展開と言ってもいい。世界が平和であるなら、ほとんど無条件に社会水平化運動は正義であると人々は考えるだろう。しかし危機の時代になったとしたら、例えば世界大戦などというものか始まったとするなら、人々は社会水平化運動も日本という枠組みがあってこそ意味があると考えるようになるだろう。

日本という枠組みと社会水平化運動との両立。できれば互いが互いを持ち上げあうシステムが望ましいだろう。

その答えを求めて彷徨ったのが日本の昭和だと思う。

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明治維新から現代までの日本近代の流れを解析する。よって見ていってください。

日本の近代というのは「官僚主義」と「維新主義」の相克と考えることもできる。戦前においては統制派と皇道派、明治維新後においては政府と西郷軍、明治維新前においては幕府と攘夷派。いったいこれ、どこまでさかのぼることが出来るのだろうか。

まず「官僚主義」について。
テツオ・ナジタは初期官僚主義の代表的イデオローグとして山崎闇斎(やまざき あんさい 1619-1682)と荻生徂徠(おぎゅう そらい 1666-1728)の二人をあげている。
山崎闇斎とは朱子学系統の儒学者。朱子学というのは、秩序の規範はこの世界の外にあると考える。伝説の古代に秩序の規範を求めたりして、考え方としては分かりやすい。
荻生徂徠は荀子、韓非子ラインの法家系統の儒学者。法家思想は、秩序の規範はこの世界の内にあると考える。だから秩序を支える法律というものは絶対ではなく、時代に合わせて変えていかなくてはならないとする。
山崎闇斎と荻生徂徠、これはどちらが正しいというものでもないだろう。時代の要請にあわせて、より有効な哲学が社会のヘゲモニーを握ればいいという感じだろう。

次に「維新主義」について。
テツオ・ナジタは初期維新主義の代表的イデオローグとして中江藤樹(なかえ とうじゅ 1608-1648)と本居宣長(もとおり のりなが 1730-1801)の二人をあげている。
中江藤樹は江戸初期の陽明学者。陽明学というのは朱子学と同じ新儒教の一派。朱子学では規範は世界の外にあると考えるのだけれど、陽明学は規範は世界の内にあると考える。それでは法家と一緒ではないかと思われるかもしれないが、法家は性悪説に立つ。だからビッチリした法律体系が必要だと考えるわけだ。これに対して陽明学は性善説に立つ。性善説の言論なんてぬるいのではないかと思ったら大間違い。性善説はギリギリの言説だ。テロリストというのはだいたい性善説をとる。
本居宣長は国学者だ。国学者というのは体系的言論が嫌いなんだよね。めんどくさい話が嫌いだというだけなら別に毒にも薬にもならないのだけれど、これ例えば、あなたは日本人ですよね、日本人なら万葉集は好きですよね、万葉集はすごくいいです、それぞれの人がそれぞれに素直なこころを歌います、それにしてもさかしらって嫌ですよね、なんていうささやきがあったとする。これを受け入れてしまうと美しき天皇制への一筋の血路が開かれ、朱子学とか官僚主義とか絶対勘弁みたいなことになる。国学というのは時代状況によっては強力な力を発揮する可能性がある。

江戸時代において役者は出そろっている。これらの思想群が昭和初期にどのように変形してあったのか? 幕末から昭和初期までの思想の流れを、上記にあげた四つの思想潮流に当てはめながら「明治維新の遺産」にそくして簡単にみてみる。

ペリー来航以来不安定になってしまった幕府的秩序を立て直すために大老井伊直弼は強権的手法に出た。朱子学的世界観をわきにおいて法家的思想を突然前面に押し出した。しかしこういうのはよくない。井伊直弼は全体の合理性のために安政の大獄を行ったと思っていただろうが、外から見れば、この合理性は井伊直弼個人の合理性なのではないかと判断されかねない。そして桜田門外の変以降テロルが止まらなくなってしまった。

明治維新から明治10年まで内乱が多発し政情はきわめて不安定だった。これは結局、大久保利通に代表される合理的官僚主義の完成を目指す勢力と西郷隆盛に代表される陽明学的維新主義を貫こうとする勢力との相克だったろう。明治政府は維新主義を排除したのだけれど、なかなか民心は収まらない。明治10年以降は自由民権運動が隆盛を極める。法家的合理主義を押し出すだけでは安政の大獄と同じであって、その合理性はお前の勝手な合理性に過ぎないと判断されてしまう可能性がある。

合理性には根拠が必要だというのは朱子学的思想だ。もう朱子学の根拠は使えない。新たな根拠として設定されたのが明治憲法だ。伊藤博文は憲法発布を予告することによって、自由民権運動を押さえ込むことと合理的官僚体制を整えるための時間稼ぎとの二つのことを成し遂げた。
合理的官僚体制は明治憲法を根拠にして、さらに明治憲法は「日本は独立してあるべきだ」という国民的総意によって支えられ、明治日本は朱子学的に安定した。

日露戦争に勝って日本は一等国になった。そして同時に、明治憲法は「日本は独立してあるべきだ」という支えを失った。日本官僚体制は、その合理性の根拠である明治憲法から解放された。この間隙をついて政界でのし上がったのが原敬だ。
原敬の論理と言うのは、官僚体制の中で政党が利益配分のヘゲモニーを握ることで全体をコントロールしようとするものだ。簡単に言えば利権政治。根拠を持たずに官僚的整合性を達成しようとするのは、荻生徂徠の法家思想の流れだ。この思想の欠点はなんだっただろうか?

大老井伊直弼は安政の大獄で法家思想を前面に押し出し、「その合理性はあなたの勝手な合理性でしょう?」という反論を喰らいテロルが止まらなくなった。
戦前政党政治は1925年4月公布の治安維持法によって、その法家思想ぶりを前面に押し出し、結果テロルが止まらなくなってしまった。
陽明学と国学がハイブリッドした維新主義が幕末と同様に凄惨を極めた。原敬以降政党政治家で総理大臣になったものは、原敬、高橋是清、加藤高明、若槻禮次郎、田中義一、濱口雄幸、犬養毅の7人だけれど、このうち4人が暗殺されている。
戦前軍部の皇道派と統制派を明治初期に当てはめるなら、皇道派は西郷隆盛で統制派は大久保利通だろう。皇道派が226事件で既存の官僚体制を沈黙させた後、統制派は日中戦争、太平洋戦争の非常時を利用して、明治官僚体制よりさらに合理的な「総力戦体制」とも呼ぶべき官僚体制を作り上げた。

アメリカの物量の前に、日本の総力戦体制もあっけなく崩壊し、日本は一敗地にまみれた。戦後の混乱期を切り抜けると、日本の合理的官僚制度は復活した。
戦争体験によって強化された総力戦的官僚体制は日本国憲法という根拠を与えられ、日本国憲法は「経済的に欧米にキャッチアップするべきだ」という国民的総意によって支えられていた。
しかしバブル崩壊により、上記の国民的総意は失われた。日露戦争の勝利によって「日本は独立してあるべきだ」という国民的総意が失われたのと同じように。
バブル崩壊以降の日本の政治は不安定化し、どこが政権をとっても、「その合理性はおまえの勝手な合理性なのではないのか?」と指摘される危険にさらされている。

江戸時代から現代までを、朱子学、法家思想、陽明学、国学の四つの思想の絡み合いという視点から見てみた。これをトータルで考えてどう判断するか?
なぜ日本という極東の小国がいち早く先進国まで自らを押し上げることが出来たのか。それは、古い合理性を後にして新しい合理性を求めてチャレンジしたからだろう。それも二度も。
そのチャレンジのための思想、朱子学、法家思想、陽明学、国学の四つの思想(このうち三つは中国思想だけれど)が、近代以前の日本にはすでに与えられていたということにもなる。


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俳句とか興味のない人がほとんどだと思います。しかし「墨汁一滴」は俳句を交えた随筆なので、俳句に興味のない人でもここには読んで感動する世界観があります。

現代に生きていると疲れますよね? 常時戦っているような気がしないでしょうか。
「墨汁一滴」において正岡子規は近代において戦う人間を応援しています。例えば、正岡子規は短歌の材料として「松葉の露」と「桜花の露」を比較しています。「松葉の露」は客観的、「桜花の露」は主観的であると判定して、主観と客観が分裂する以前の古ならともかく、近代に生きる明治人は客観的な言葉である「松葉の露」という言葉を使うべきだといいます。そして私達が疲れてしまうのは、この客観性ですよね。
一方で正岡子規は当時挿絵画家であった中村不折が頑張りすぎるのを心配して、
「不折は小さいキャンバスにも大きい景色を描く。大きい景色にこだわることはないのではないか」
優しい言葉を書いています。これを私なりに解釈すると、伝統に寄りかかって休息する事も大事な事である、ということだと思います。

人間は戦って疲れたら休む。これは当たり前の事であって、正岡子規はこの当たり前のことを主張しています。問題はどこでどのように休むかということ。幸いにも日本には歴史に培われた伝統というものがって、それを正しく覚えるのなら、寄りかかって心を休息させる事が出来るでしょう。俳句でも伝統的なルールのようなものがって、それを覚えて守っていいればある程度のものは出来、ある程度尊敬され、精神的に楽が出来るわけです。

正岡子規の「墨汁一滴」は、人生での戦う事と休息する事とのバランスの大切さを教えてくれます。バランスというは難しいのです。ですからこの本はすごくいい。



対華21カ条要求というのは、1914年第一次大戦中に当時の大隈内閣が、当時の中華民国大統領袁世凱にたいして出した侵略色の強い要求一覧みたいなものです。

前から私は、
「第一次世界大戦中のドサクサとはいえ、何でこんなものをいきなり出すのか」
なんて思っていました。しかし調べてみると、対華21カ条要求とは袁世凱との取引の結果、すなわち袁世凱が皇帝になることを日本が認める代わりに袁世凱は対華21カ条要求を受け入れろ、ということらしいです。
しかしこの対華21カ条要求は明らかに過大な要求で、袁世凱すら受け入れることが出来ませんでした。

袁世凱は、対華21カ条要求に対する国民の反発で「皇帝」になる事が出来ませんでした。その煩悶によって袁世凱は死去、その後を段祺瑞が継ぎます。
大隈内閣のあとの寺内内閣がこの段祺瑞に資金を流したのが「西原借款」です。西原借款の総額が1億7000万とあります。当時の1円は今の1万円ぐらいだと思います。それで計算すると、当時の1億7000万は今の1兆7000億ということになります。結局このお金、ほとんど返ってきませんでした。

当時の日本政府は、袁世凱、段祺瑞、張作霖という軍閥政権を継続的に後押ししたわけです。しかしこれがダメなんだ。結局こいつらはやくざの親玉みたいなもので、中国を一つにまとめるという能力が根本的に欠けているのです。今からこんなことを言ってもどうしようもないのですが、日本は孫文、蒋介石というルートこそ後押しするべきだったのです。

当時の日本政府が袁世凱や段祺瑞を後押ししたのは、加藤高明や寺内正毅という当時の日本の指導者もやくざの親玉的な人間であるということの裏返しで、彼らは孫文や蒋介石という確固とした道徳を心中に持つ人間より一段劣っていたという事だと思います。
このことは本当に残念です。
近代天皇制とはよく出来た制度だと思います。やくざの親玉でも、天皇というセーフティーネットおかげで威厳を持って国民に接する事が出来ますから。ただやくざの親玉はしょせん2流の人物だということです。


対華二十一カ条要求とは何だったのか 第一次世界大戦と日中対立の原点
対華二十一カ条要求とは何だったのか 第一次世界大戦と日中対立の原点

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徳富蘇峰というのは現代において人気がなくて、岩波文庫でもほとんどが絶版です。

福沢諭吉や中江兆民などは、国民精神の自由を強調し、明治維新後の日本独立維持への道筋を示してくれました。明治の日本人一人ひとりが精神の独立を達成するなら、必然的にトータルとしての日本も独立を維持できるであろうという、ある種理想主義的な主張です。
徳富蘇峰はその流れを継承して、「平民主義」というものを唱えます。精神の独立なんていっていても、結局は旧士族だけに語りかけているのではないか、大日本帝国臣民全てが精神の独立を達成すべきである、徳富蘇峰はそう考えたんだと思います。

この蘇峰の考え方に私は共感します。
ただ全ての人間が精神の独立を達成するということは現実可能なことなのでしょうか。

精神障害の夫婦が子供をつくることをどのように評価すればいいのでしょうか。
一人目の子供に障害があった場合、二人目をつくるべきなのでしょうか。

突き詰めて考えてしまうと、全ての日本人が開放されるなんていうのは夢物語なのです。

ところが戦争になると話は別です。近代の戦争は総力戦でした。日本の全てを傾けなければ戦争に勝てないとなると、結果全ての日本人に役割が与えられるのです。大日本帝国の名の下に全ての帝国臣民が精神の独立なるものを体感します。

究極の国家主義は平民主義なのです。

平民主義とは簡単に実現できてしまうものだった、しかし大事なのは簡単な道を選ばずに、平民主義と現実との相克に身をさらし続ける事だったという。
だけど日本はいいところまでは行ったとは思います。結局太平洋戦争で明治国家は崩壊しましたが、明治人の頑張りのおかげで、現代において日本はまずまずのポジションにいると思います。



明治20年において、華族には三種類あって、公卿家族、大名華族、明治維新で活躍した下級武士華族、に分かれます。四民平等というのを建前に、明治国家は成立するわけですから、本来華族なんていうものは必要ないはずです。しかし、そこが明治維新の革命が徹底しないところだったのでしょう。

大正維新だとか昭和維新だとか、いつまでも第二の明治維新が叫ばれたのは、華族や財閥の存在というのが関係しているのでしょう。

そしてあの敗戦が全てを押し流してしまった。血筋とか伝統で自分が他人より優れた人間であるはずだ、という幻想は日本からは消えてしまいました。こういう感覚を大事にしていかなくてはいけないです。

この本は明治前半における、爵のランクをめぐる哀れな狂想曲を丁寧に解説してくれています。伯爵が侯爵に昇格したって、結局は敗戦で何の意味もないわけですから、この本の丁寧さが逆に残酷さにつながる感じがすごくいいです。

一つ例を出しましょう。加賀前田家(侯爵)に生まれたマナー評論家兼皇室評論家(笑)酒井美意子(1999年没)の戦前における級友との会話です。

級友
「あのとき前田さんはだいぶ後になって朝廷側におつきになったのね」
酒井
「そうなの、だって将軍家とは親類でもあったし、うかつには動けなかったらしいのね。うちの父がいつも申しますの。あのとき立ち遅れたのはまずかったって」
級友
「ほんとね。だから論功行賞で損なさったのよ。もっとはやく兵を挙げてらしたら、侯爵でなくて当然公爵だったというお噂ね」

どうでしょう、このいかにもマリーアントワネットの取り巻き同士が交わしそうな会話は。いかにもフランス革命前夜という感じです。

これはとても分かりやすい本でした。例えば江戸時代の儒家の分類分けとか参考になります。

誰も江戸時代の儒家なんて興味がないでしょうか。でもここが分からないと、明治国家が分からなくなってくるのです。明治国家が分からないと現代日本が分からない。現代日本が分からないと自分自身が分からなくなります。最後には何がなんだか分からなくなるのです。

そして、何がなんだか分からないまま自慢げに焼き鳥のウンチクを語り出すわけです。

明治国家は西洋文明にあこがれて、その歩みを始めます。明治39年原勝郎は「日本中世史」という本を書きます。これ、かなり有名な本らしいです。この本によって明治日本は日本中世封建制とヨーロッパ中世封建制に共通点を見いだします。憧れのヨーロッパは中世においては日本と同じ封建制だった、ヒャッホーみたいな感じです。中国がだめなところは、2000年以上も前から郡県制だったところ。しかし日本はヨーロッパと同じく中世においては封建制だった。やっぱり日本はヨーロッパにつづいて文明国になるべき国だったんだ。よかった、よかった。

かわいそうな日本。

偉大なヨーロッパ人は私達とと同じように頭に髪の毛が生えているんだと言って喜んでいるのと同じレベルでしょう。イギリスに産業革命が興ったのは、イギリス人が優秀だったのではなく、ヨーロッパがアメリカ大陸を搾取した結果です。ある一定の富の蓄積の結果、産業革命が起こったのです。何故ヨーロッパが東アジアより先にアメリカ大陸を搾取できたかというと、それは近かったからでしょう。アメリカまでの距離が。

頑張ってもどうにもならないこと、というのが歴史の中にはあるのです。太平洋戦争というのは日本にとって古今未曾有の大敗でした。あの大敗がゆえに明治国家は失敗国家だった、明治人のがんばりは無駄だった、伊藤博文は所詮農民だ、あの戦争で死んだ人間はみんな犬死だ。言おうと思えばなんとでもいえるのです。

でもまだ日本はここに存在するわけで、世界の辺境でギリギリの歴史を生きたかつての日本人の話を聞くことは、今の私達を知る手がかりになるのではないでしょうか。


近日「朱子学と陽明学」を読んで、総論をアップします。(2019/1/20)

靖国神社というものはどんな進歩主義者も、どんな左翼も否定しきれない力を持ちます。

この本でも小島毅は靖国神社や皇国史観の歴史をいろいろ語りながら、著者にとって靖国が認められない理由と言うのが、明治維新のときに薩長が幕府側に紳士的ではなかったというものです。

靖国を真剣に語る人は結局最後には歯切れが悪くなるのです。

立花隆は「天皇と東大」のなかで、皇国史観を否定的に書き続けた後に、
太平洋戦争で死んだ人は犬死であると言う人がいるが、そのような事を言う人は日本の恥辱である。
と断言します。

靖国や皇国史観なんていう一見死んだ思想に何らかの生命が宿っているのです。それを突き詰めて考えれば、それは日本というものの、その「日本」という名称にあると思います。「日本」という名称は中国において随や唐という強力な統一王朝が出来る事によって、アジアの東の果ての島国が自分達の統一的な存在を自覚した結果、当時の天皇がが自分の国ににつけた名称です。
ですから天皇を守って死んだ人を祭る靖国神社を否定すれば、「日本」という名称を否定することにつながってくるのです。天皇には親近感のない人も、「日本」という名称には愛着のある人がほとんどではないでしょうか。

子供のころ見た甘く懐かしいもの、花の咲く丘や、夕焼けが包む人の少なくなった学校や、甘いお菓子や、好きだった女の子のいる風景なんかにも何故か全て「日本」というものがしみこんでいるような気がしないでしょうか。

日本はそんなに悪い国ではないです。もう不景気も長くて、日本よりも金持ちの国なんていうのも今ではいっぱいあるでしょう。でも日本のよさはお金の量なんかではない。

靖国は静かにそこにあり続けるのが一番いいのではないでしょうか。


イザベラバードというイギリス女性が、明治10年頃に日本内陸部を旅をしました。その手記が残っています。

日本人はキレイ好き、風呂というものに頻繁に入るというイメージがありますが、明治10年においては当てはまらない地域というものがかなりあります。服というものも貴重品で、洗濯なんてしまうと繊維が傷んでしまうので、洗濯をあえてしないような生活習慣です。

戦後の高度経済成長前までの日本の生活水準というのは、欧米に比べて低く「日本的低位」という言葉があるくらいです。

しかし、日本的低位にあるとはいえ、明治10年の日本は日本らしい善良な人々がある一定以上存在する世界です。この肩を寄せ合ってくらす日本人達が、その後、日清戦争、日露戦争、日中戦争、太平洋戦争、に参加するわけです。

水漬くかばね 草生すかばね

貧しい中でも大事に育てられた子供達が青年になり、その青年は万葉集を手に南方の異国の地でで餓死するなんて、何であんな事になってしまったのだろうか。

司馬遼太郎は何故あんなに乃木希典に厳しいのでしょうか。司馬遼太郎にとって、時代は乃木希典以前、乃木希典以後に分かれていて、前者はよい大日本帝国、後者は悪い大日本帝国のレッテルが貼られているかのようです。
旅順て゛16000人死んでるけど、ロシアだって10000人死んでるわけだし、結局旅順は落としたんだし、そう乃木希典を愚将扱いするほどの事もないのではと思います。

司馬遼太郎は太平洋戦争に従軍しましたが、そこでよっぽどいやな目にあってきたのでしょうか。全体主義日本の源流として、明治天皇に殉職した乃木希典に司馬遼太郎の憎しみが凝固したんでしょうね。

司馬史観というのは、日露戦争までの日本は上り坂のいい日本、日露戦争後の日本は下り坂の悪い日本と区別する事であると私は理解しているのですが、歴史をこんなに簡単に判断していいものでしょうか。
司馬史観は、戦後の成長日本を「日露戦争前のいい大日本帝国」になぞらえる事で団塊の世代を中心に急速に受け入れられた考え方だと思いますが、では1990年以降のバブル崩壊後の今の日本は悪い日本なんでしょうか。私は1990年以前以後だいたい均等に生きましたが、今が30年前よりダメな時代であるとは思わない。

司馬遼太郎の本は読めば面白いんですが、やはり戦後レジームの限界があるのでしょう。

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