第3次桂内閣の後の総理大臣は海軍大将山本権兵衛(やまもと ごんのひょうえ)をはさんで大隈重信。その後は陸軍大将寺内正毅(てらうち まさたけ)をはさんで原敬。
原敬は大正10年11月4日、総理在任中に暗殺された。
これは明治34年から大正10年までの歴史的事実だ。そしてこの歴史的事実に何らかの歴史的必然性というものはあるのだろうか。
それはあるのかもしれないし、ないのかもしれない。必然性があるとしても、それは進歩かもしれないし堕落かもしれない。
文久3年生まれ、明治大正昭和を生き抜いた大言論人徳富蘇峰はこのように語る。
「大東亜戦争は世界水平運動の一波瀾であった。いってみれば、明治維新の大改革以来の、継続的発展であり、いわば明治維新の延長であるといっても差し支えない。いやしくも一通りの歴史眼を持っているものは、この戦争は全く世界の水平大運動の、連続的波動であったことを、看過することはできない。しかるにその水平運動は、運動の拙劣であったために、水平どころか、さらに従来の差別に比して、大なる差別を来したることは、所謂事志違うものというの外はない。即ち水平運動の仕損じである、失敗である」
徳富蘇峰は明治維新から太平洋戦争にいたる時の流れを、世界水平運動の継続的発展である、と言っている。このラインに沿って、明治34年から大正10年までの政治的展開を考えてみようとおもう。
日露戦争は当時の日本なりの総力戦だった。
北一輝は日露戦争の帰還兵に、「一将功成りて万骨枯る」と書かれたビラを配ったという。さすが総力戦思想のカリスマだ。明治国家で虐げられている一般兵士がいくら命を賭けて戦っても、名誉は支配者層に回収されてしまうだろう、というわけだ。
分裂した社会状態では総力戦を戦うことはできないということをヨーロッパ列強が明確に理解したのが第一次世界大戦(1914から1918年)だ。日露戦争終戦は1905年だから。
日露戦争を経験した日本人は、より厳しい総力戦を戦うためには日本のさらなる一体性、さらなる水平化が必要であるという「ぼんやりとした観念」を持っただろう。
桂太郎は長州奇兵隊出身であり、山県有朋の子分格だ。明治維新以降の藩閥体制から、日露戦争後に民権思想への譲歩として、衆議院の最大政党である政友会の総裁「西園寺公望」に大命が降下した。
しかしこれは譲歩といっても微妙な譲歩だ。政友会という民党の党首が総理になったからといって、直ちに政党政治が行われると言うわけではない。政友会は衆議院の政党ではあるのだけれど、政友会党首西園寺公望自身は衆議院議員ではない。
譲歩と回収が繰り返す。
そして、桂-西園寺-桂―西園寺―桂 と続いた。
藩閥勢力と政友会はグルなのではないかという認識が広まってきた。第二次西園寺内閣の後、第三次桂内閣が成立した時に、いいかげんにしろいつまでやるんだと、都市民衆が怒りだした。
本来は民衆デモ程度は政変には至らないのだけれど、当時は日露戦争後の不況だったんだよね。長州閥―陸軍、薩摩閥―海軍、政友会―内務省、という三つ巴の予算分捕り合戦が展開されていて、桂太郎はこれを調停することができなかった。桂新党を創って衆議院を解散しようと思ったのだけれど、反桂大衆運動のせいで十分な党員を集めることができなかった。
第三次桂内閣は二ヶ月で崩壊した。
民衆運動が直接藩閥内閣を倒したわけではないのだけれど、支配者階層に亀裂が生じている場合は、民衆運動も有効に政変となりえるということが証明された。
第三次桂内閣の後は海軍大将山本権兵衛内閣となった。今までは陸軍-政友会内閣だったのが、海軍-政友会内閣に変わっただけで、桂園時代(けいえんじだい)と代わり映えしない。
海軍内閣に都市民衆はプンプン丸かと思えばさにあらず。大衆運動は急速に収束した。
結局どういうことなのかと言うと、民衆は時代に不満なのだけれども、いったい何が不満なのかよくわからないから、運動が継続しない。徳富蘇峰的に言えば、社会の水平化を民衆は望むのだけれど、いったいどうすれば日本社会が水平化するのか分からないということになる。
当時は現代と異なり、最低賃金、年金制度、失業保険、八時間労働制、などはなく、これらの権利観念の根拠思想もあいまいだった。当時の日本は極めて自由主義的な世界だった。
山本権兵衛内閣はよろしくやって海軍の軍事費を増やすのかと思われたときに、とんでもない爆弾が爆発する。
シーメンス事件である。海軍ぐるみの汚職事件だね。
この状況で海軍補充費7000万円予算が衆議院を通過。怒った民衆が国会議事堂を囲む中、この予算案が、なんと貴族院で否決。両院協議会が不調に終わり予算不成立となり山本権兵衛内閣は大正3年4月16日総辞職した。
第三次桂内閣、第一次山本内閣と立て続けに民衆運動が倒閣に力を発揮した。しかし一般国民の意識が明確に政治を左右するようになったとはいえない。支配階層に統合性が欠けている場合、民衆運動を味方にすれば敵を追い落とすのには有利だった、というレベルの話だろう。
日露戦争後の日本は、国力を傾けた戦いに勝ちながらも賠償金を取れなかったことにより、財政的に極めて厳しい状況だった。陸軍、海軍、内務省の三者すべてを満足させるような予算を組むことはできなかった。結果、足の引っ張り合いみたいなことになって、結果民衆運動が利用されるということがありえた。
明治維新以降の日本の歴史は世界水平運動の継続的発展であるという歴史観からすれば、当時の日本は奇妙な隘路に嵌まり込みつつあった。
山本権兵衛の後は第2次大隈内閣となった。大隈重信は衆議院第二党の立憲同志会の支援を受けることが期待できたし、陸軍と海軍に予算獲得の保障もして組閣した。しかしそもそも、陸軍、海軍、内務省のすべてが満足する予算を組むことは不可能だ。それができるのなら、桂園時代(けいえんじだい)が存在する必然性はないし、第3次桂内閣も第1次山本内閣も倒れなかっただろう。
そして第2次大隈内閣はどうなったのだろうか。
これがなんと神風が吹いた。
第一次世界大戦の勃発である。
世界大戦勃発の8ヵ月後、大正3年12月25日大隈重信は衆議院を解散し大勝した。この第12回衆議院議員総選挙では陸軍や海軍の予算削減は問題にならなかった。さらに大隈重信はこの選挙期間中に袁世凱に対し悪名高い対華21カ条要求を行っている。
日露戦後から第二次大隈内閣まで、明治38年から大正4年まで、この時代をどう考えるか?
シーメンス事件発覚から1年ほどしかたっていないのに大正政変のエネルギーは収束した。それほど世界大戦のインパクトは大きかったのだろう。
大正政変というのは古い時代からの解放の願望だろう。これを徳富蘇峰のように社会水平化運動の展開と言ってもいい。世界が平和であるなら、ほとんど無条件に社会水平化運動は正義であると人々は考えるだろう。しかし危機の時代になったとしたら、例えば世界大戦などというものか始まったとするなら、人々は社会水平化運動も日本という枠組みがあってこそ意味があると考えるようになるだろう。
日本という枠組みと社会水平化運動との両立。できれば互いが互いを持ち上げあうシステムが望ましいだろう。
その答えを求めて彷徨ったのが日本の昭和だと思う。
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