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村上春樹と大江健三郎の文学の傾向は似ている、ということがよく言われます。

簡単なところで言うと、村上春樹の作品にも大江健三郎の作品にも四国がよく出てきます。
大江健三郎は伊予の喜多郡生まれなので、四国が作品の舞台になることが多くなることも理解できます。しかし村上春樹は京都生まれの西宮育ちで、大学は早稲田で東京暮らしで、四国とはあまり接点がないような。


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【村上春樹の中での四国】


村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」で主人公の失踪した妻から来た手紙の消印が高松でした。
「ねじまき鳥クロニクル」では、ある特定の井戸が重要な役割を担うのですが、その井戸の所有者家族が四国で一家心中しています。
「海辺のカフカ」では、主人公の少年が家出した結果居ついた場所が
高松でした。少年は高知の山奥に家を借り、そこで幻想的な体験をします。
「騎士団長殺し」に登場する免色さんは、その珍しい苗字のルーツは四国であるらしい、と語られたりしています。

村上春樹は、作品中で無理矢理に四国を出している感じです。これは村上春樹の大江健三郎に対するオマージュではないかとも考えることも可能です。


【村上春樹と大江健三郎の文学】


村上春樹と大江健三郎の文学の具体的な内容の似ていることについて、これは大江健三郎の初期の作品については当てはまるとおもいます。

大江健三郎の最初期の短編である「奇妙な仕事」から、その主人公と登場人物の女子学生との会話での主人公パートを抜粋してみます。  

『たいへんだな、と目をそむけて僕はいった』

『火山を見に? と僕は気のない返事をした』

『君はあまり笑わないね、と僕はいった』

どうでしょうか?
私は、村上春樹に出てくる「悪い奴じゃないのだけれどちょっと不愛想」な主人公たちと似ているところがあるのではないかと思います。

これもまた大江健三郎の最初期の短編である「死者の奢り」(ししゃのおごり)は、主人公「僕」が、大学の医学部でアルコール水槽に保存されている解剖用の死体を処理のアルバイトを、辛気臭い女子学生といっしょにするという話なのですが、小説内での語り手が一人称の「僕」ですから、村上春樹の小説の感覚と似ています。

昭和30年ごろの大江健三郎の文学における問題意識というのは、寄り掛かる価値観を失った若者を描写することだったと思います。
昭和20年後半は戦前と戦後の価値観の変わり目で、戦中に受けていた教育規範が胡散霧消し多くの人が心の軸を失ってしまい、人生経験の少ない若者の自殺率が異常に高くなっていた時代でした。

戦後の確固とした価値観を失った時代に生きた若者の多くは、価値というのは相対的なものであるという場に至って、結果として生きる力を失ってしまったということなのでしょう。同じようなタイプの青年を描いているという意味で、初期の大江健三郎の作品と村上春樹の作品とは似ているところがあると思います。

しかし大江健三郎は、価値が相対的だという場に落ち込んでしまった青年を描くという態度から、生きる力を失った人はどのようにしたら救われるのかという文学的態度に一歩踏み出しました。遍歴の末、イーヨーというヒーローを得て大江文学は一つの到達点を示現したと思います。

これに対して村上春樹の文学は、大江健三郎と違って、新しい世界に一歩を踏み出すということがなかったと言えます。いつまでも「ノルウェイの森」の劣化版を書いています。というか、書けば書くほど劣化していっています。

これは一歩踏み出した世界から見れば、村上春樹の文学は劣化しているように見えるということになります。
価値が相対的だという世界にとどまり続ければ、村上春樹の世界は時とともに深化しているように見えるでしょう。

世界に実体としての価値観があるか、それとも価値観というのはすべからく相対的なものであるかは、それぞれの人の判断によるものであるでしょうから、どっちの世界観が正しいとかいうものもないとは思います。

ただ、大江健三郎と村上春樹の文学というのは、はじめは同じような地点から出発したのですが、あとで方向性が全く異なってしまったということになるでしょう。


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村上春樹はドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」をオマージュしているらしい。

村上春樹訳「グレート・ギャツビー」のあとがきで村上春樹は、

もしこれまでの人生で巡り会ったもっとも重要な本を三冊あげろと言われたら、考えるまでなく答えは決まっている。この」「グレート・ギャツビー」と、ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」と、レイモンド・チャンドラー「ロング・グッドバイ」である。

と語っている。

「グレート・ギャツビー」とレイモンド・チャンドラー「ロング・グッドバイ」は分かるけど、「カラマーゾフの兄弟」は村上春樹の小説世界からはかなり遠いと思うけれど。


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村上春樹はよくメタファーと言う。メタファーだけだと隠喩という意味だけれど、メタファーのメタファーとか、世界はメタファーだ、とまで言ったとしたら、もうそれは夢の世界でしょう。根拠の言葉のない隠喩だけの世界があるとしたら、それは夢でしょう。

それに対してカラマーゾフの世界は本当にリアルだ。
例えば、「カラマーゾフの兄弟」のエピローグで、アリョーシャが子供たちの前で行った演説をあげてみよう。

「子供のころのなにかすばらしい思い出以上に、尊く、力強く、健康で、ためになるものは何一つないのです。たった一つのすばらしい思い出しか心に残らなかったにしても、それがいつか僕たちの救いに役立ちうるのです。もしかすると、まさにそのひとつの思い出が大きな悪から彼をひきとめてくれ、彼は思い直して、
そうだ、僕はあのころ、善良で、大胆で、正直だった
と言うかもしれません。内心ひそかに苦笑するとしてもそれはかまわない。みなさん、保証してもいいけれど、その人は苦笑したとたん、すぐ心の中でこう言うはずです。
いや、苦笑なぞして、いけないことをした。なぜって、こういうものを笑ってはいけないからだ、と」

メタファーのかけらもないと思う。

ただ、村上春樹と「カラマーゾフの兄弟」の共通点として、アンチ近代というのはあるかもしれない。
近代という時代は夢と現実を峻別する世界だし、巨大な整合性の中に個というものを回収する社会だ。

夢と現実を峻別する世界というのはどういうことかというと、夢と現実を区別できないようなヤツは病院送りみたいな感じ。今の世界のことだ。フーコーによると、精神病院と精神病患者というのは同時に発生したという。
村上春樹は、夢と現実を峻別する現代社会に反抗してメタファー世界と言っているのだろう。

巨大な整合性の中に個というものを回収する社会というのはどういう意味かというと、巨大な知識体系が存在する社会では、個人はその知識体系に寄り掛かって生きるほかないという社会。まさに現代だろう。
左翼リベラルの人たちは反論をするときに、「まず何々という本を読んでから語りなさい」みたいな言い方をよくする。これは巨大な知識体系に寄り掛かって生きるほかない人間の叫びだろう。
このような近代世界に対して、ドストエフスキーは個々人がそれぞれに独立して語り合う世界というものを取り戻そうとした。

村上春樹と「カラマーゾフの兄弟」はアンチ近代という点では一致しているかもしれないが、その後の目指す方向性というのは180度異なっているだろう。


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村上春樹「海辺のカフカ」の辛口レビューです。



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あらすじは、東京に住むカフカ少年が家出して、高松の図書館に居候することになり、その館長の女性と仲良くなるというもの。話としてはこれだけなんだけれど、構成とか作品の意味についてもう少し説明してみたい。

家出して四国に住みついた15歳のカフカ少年のパートと、子供のころの事故でネコと喋れるようになった初老のナカタさんのパートとが交互にくり帰されるという構成。


このカフカ少年パートがメインパートだと思う。15歳カフカ少年は家出して、まあいろいろあって高松のしゃれた図書館に居候することになる。そこの館長は佐伯さん(女性 52歳)、職員は1人で大島さん(男性? 21歳)。

この大島というヤツはカフカ少年を助けていろいろ人生の教訓とかを語ったりするのだけれど、読者的には話がだるい。

大島君は想像力のない人間は嫌いらしい。
しかし彼自身の語りの内容というのが、

「いかなる人間も同時にふたつの違う場所には存在することはできない。それはアインシュタインが科学的に証明している」

とか、

「ルソーは人間が柵をつくるようになったときに文明が生まれたと定義している。まさに慧眼というべきだね」

とか、権威のヨイショなしには論理を持ち上げられないレベルだ。これで想像力のない人間は軽蔑に値するとか、よく言えるよねと思う。こいつの話は読む価値はない。

この大島はよく喋る。大島の喋った内容をまるごと削ったとするなら、「海辺のカフカ」でのカフカ少年のパートは半分ぐらいになるだろう。

高松の図書館の館長佐伯さん(女性 52歳)には互いを理解し合えるような幼馴染がいたのだけれど、彼は二十歳の時に事故死してしまう。それ以降、佐伯さんは孤独に生きているのだけれど、これはもう「ノルウェイの森」のキズキと直子だろう。

「ノルウェイの森」では、キズキは18ぐらいの時に自殺して、残された直子を「僕」は何とか救おうとするのだけれど結局ダメだったという。あれから30年たって直子が佐伯さんとして生きていたら? 「僕」の子供がカフカ少年として15歳になっているとしたら? 

「僕」の15歳の子供が、あれから30年たった直子と結ばれたとして、「僕」は救われるのだろうか?

大島くんは、ギリシャ悲劇オイデプス王の物語まで持ち出して、巨大な円環が閉じるように話を操作しようとしているけれど、やっぱり15歳の少年にとって52歳の女性というのは初体験にはきついのではないかな。読まされるほうもキツイ。ギリシャ悲劇を持ち出して真理は相対的なものだと語ったところで、やっぱり自身の中に価値を持つような相対的ではない種類の真理というは存在するよ。

やっぱり「海辺のカフカ」は「ノルウェイの森」の問題を無理やり解決しようとしているのではないか。

直子は自殺して「僕」は緑に乗り換えた。もうそれでいいじゃないのって思う。時間は循環しない。時間ほど残酷なものはない。

「海辺のカフカ」におけるメタファーを翻訳すると、

彼女が死んで30年たつのだけれど、もしかしたら彼女は生きているかもしれない。僕の遺伝子を継ぐ15歳の息子が、現在50歳の彼女に会いに行く。僕の分身である15歳の息子は、現在50歳の彼女の中に15歳の少女を発見して恋に落ちる。15歳の少年は50歳の彼女を母と思い、15歳の彼女を恋人だと思う。二人は四国の幽玄の山の奥で強く結ばれる。しかし、母であると同時に恋人である彼女は、15歳の少年を四国の山奥から現実の世界へと力強く押し出してくれた。

ということになるだろうが、これは大丈夫だろうか? 突っ込みどころが目白押しではないだろうか。

結局、「海辺のカフカ」は「ノルウェイの森」の蛇足だと思う。

「ノルウェイの森」で直子は「僕」に、

 「あなたに私のことを覚えておいてほしいの」

と言う。女性のこのような自己愛的な発言は、男的にはイライラすると同時に詩的なものがある。本来ならこのような女性の謎を解いてはいけない。

「海辺のカフカ」で佐伯さんはカフカ少年に

「あなたに私のことを覚えておいてほしいの。あなたさえ私のことを覚えていてくれれば、ほか のすべての人に忘れられたってかまわない」

と言う。言葉が付け足されてない? これがシンボルメタファーとしての蛇足ですよ。



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村上春樹「ノルウェイの森」は素晴らしいい小説でした。映画化もされたが、やはり小説のほうがいいですね。

主人公の「僕」は、死んだ友人キスギの彼女であった直子と東京で偶然出会う。僕と直子は何度かデートを重ねるのだけれど、直子は精神の不安定な女の子で、ある日突然京都北部の精神療養所に移ってしまう。直子から手紙を貰った僕は、その療養所を訪れる。


僕は療養所へゆく電車の中とかで、トーマスマンの「魔の山」を読む。療養所でも直子が眠った後に「魔の山」のページをめくったりする。

「魔の山」という小説は、カストルプという青年がスイスの結核療養所で何年かすごしたことについての小説だ。「魔の山」は教養小説といわれている。カストルプが療養所で、いろんな人との係わり合いによって成長していくという。

しかし「魔の山」を読んでみれば分かるのだけれど、小説の中でカストルプ青年が、人間として教養人として、実際に成長しているかどうかというのは微妙だ。確かに奇妙な人物たちが様々な言論をカストルプの前で展開はする。しかしそれは閉じられた結核療養所内での言論であって、外の世界で通用するような実践的教養ではない。魔の山でカストルプは、さらに言えば「魔の山」を読んだ私たちは何を学んだのだろうか?


僕は直子をたずねて、京都北部の山深い精神療養所を訪れる。ここは外界とは隔絶されている。まさに魔の山だ。カストルプは何年も滞在したのだけれど、僕は2泊3日。

僕はこの魔の山で、直子や直子と同室のレイコさんと対話をする。この療養所では何でも正直に話すことになっている。人に意見を押し付けたり自分の弱かった過去を隠す必要はない。直子から自殺したキズキとは本当はどのような関係だったのか語られたりする。外の世界ではとても語ることのできないようなセンシティブな話。

外の世界と療養所内では、人を支配するところの雰囲気のようなものが異なる。直子やレイコさんは療養所内の特殊な雰囲気の中でしか生きることはできない。そして、外の世界の人間は外の世界の雰囲気の中で生きる。ところが僕は療養所を訪ねることで、外の世界と療養所の世界、二つの世界の雰囲気を知ることになる。

この二つの世界を知ること、全く異なる雰囲気の世界が同時に存在しえるということを体感すること、これが僕の成長であり、「魔の山」的教養の獲得なんだろうと思う。

魔の山を下りた僕。ここまでが上巻。
以下、下巻。

主人公「僕」は、京都北部の精神療養所に直子を訪ねる。

直子は僕の高校時代の親友であるキズキの彼女だった。キズキと直子は幼馴染であり恋人同士であり、互いに深く結びついていた。キズキは自殺して直子だけが残された。直子は精神を病み、僕は直子を守ろうとする。

互いに深く結び合う男と女とはどのようなものなのだろうか。夏目漱石の「門」に、宗助と妻オヨネとの関係についてこのような表現がある。

「社会の方で彼らを二人ぎりに切り詰めて、その二人に冷ややかな背を向けた結果に他ならなかった。外に向かって成長する余地を見出せなかった二人は、内に向かって深く延び始めたのである。彼らは六年の歳月を挙げて、互いの胸を掘り出した。彼らの命はいつの間にか互いの底にまで食い入った。
二人は世間から見れば依然として二人であった。けれども互いから云えば、道義上切り離す事の出来ない一つの有機体になった」

近代における基本的なルールというのは、自らの価値を自らの中に認めるということだ。いばらの道であり、正直これは誰にでも完遂できることではない。多くの人は幾分か諦めて、地域や伝統や権威に寄りかかり生きていく。幾分か諦めてという自覚があるのなら、これでべつに悪くもない。

ところがこの近代のルール回避のための裏技がある。二人の人間が互いに依存しあえば、孤独という沼を避けて自分の根拠を確認することができる。依存しあう二人の人間とはだいたいにおいて男と女であって、普通これを恋という。ただ依存しあう男と女といっても、恋の始まる前はそれぞれに根拠があるのが普通なのだけれど、根拠無く二人が依存し続ける場合は問題がある。近代において大人になるための代償を払っていないから。

「門」の宗助、「こころ」の先生もそうだし、キズキと直子も同じパターンだ。

キズキは死んで直子は残された。僕は直子を救うために強くなろうとする。僕が自らを強くするための根拠とは、世界を相対化する能力のことだ(これについては私の「ノルウェイの森上」の書評を読んでほしい)。本文にこのようにある。

「おいキズキ、と僕は思った。お前とちがって俺は生きると決めたし、それに俺なりにきちんと生きると決めたんだ。お前だってきっと辛かったろうけど、俺だって辛いんだ。本当だよ。これというのもお前が直子を残して死んじゃったせいなんだぜ。でも俺は彼女を絶対に見捨てないよ。何故なら俺は彼女が好きだし、彼女よりは俺のほうが強いからだ。そして俺は今よりもっと強くなる。そして成熟する。大人になるんだよ。そうしなくてはならないからだ」

直子は結局自殺する。救われるには直子は根拠がなさ過ぎた。これはね、メンヘラ女を好きになった男は分かると思うのだけれど、根拠なく依存先を探そうとする人間を救うことは根源的にムリなんだよね。

僕は最後、直子の世界とミドリの世界とのはざまにいる。

例えば、フローベールのボヴァリー婦人は近世と近代のはざまでこのように言う。

「しかしいったい何が彼女をこんなに不幸にしているのだろうか? 彼女を転倒させてしまった異常な禍はどこにあるのか? 自分を苦しめる原因を捜すように彼女は頭をあげて周囲をみまわした」

僕は、直子の世界とミドリの世界とのはざまでこのように言う。

「僕は今どこにいるのだ?
僕は受話器を持ったまま顔を上げ、電話ボックスのまわりをぐるりと見わたした。僕は今どこにいるのだ? でもそこがどこなのか僕にはわからなかった。見当もつかなかった。いったいここはどこなんだ? 僕の目にうつるのはいずこへともなく歩きすぎていく無数の人々の姿だけだった。僕はどこでもない場所の真ん中から緑を呼びつづけていた」

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ノルウェイの森 (講談社文庫)









村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」のあらすじというのは、
主人公「僕」は井戸の底でリアルな夢を見た。真っ暗なホテルの部屋で妻をめぐって義兄と対決する夢。バットでぼこぼこにしたのだけれど、現実世界では、義兄は同時刻に脳卒中で倒れていた。

というもの。なんだそれ、という要約になってしまうのだけれど、村上春樹の楽しみ方というのは、この要約にどういう意味をのせていくかということになると思う。意味をのせるなんて意味がないと考える人もいるだろうが、それはそれでかまわないと思う。

どのように意味をのせるかというのは、真理を探究するなんていうものではなく、世界説明の仮説をつくってみるという程度のもの。以下に「ねじまき鳥クロニクル」世界の個人的説明仮説を展開します。

女性をめぐっての対決という図式は、ごぞんじ「ノルウェイの森」にも存在している。

「ノルウェイの森」の主人公「僕」は高校時代の親友であったキズキの彼女であった直子を好きになる。キズキと直子はベストカップルだったのだけれど、何故かキズキは直子を残して自殺してしまう。残された直子は精神的に極めて不安定になる。「僕」は直子を助けようとするのだけれど、結局直子はキズキの後を追うようにして自殺してしまう。

すなわち直子をめぐって、生きている「僕」と死んだキズキの綱引きがあって、結果「僕」はキズキという死者に負けてしまう。
ではどうすれば「僕」は直子を救うことができたのだろうか。「ねじまき鳥クロニクル」はこの疑問から始まる(仮説だよ)。

なぜ直子が自殺したのかというと、直子の精神状態が不安定だったからだ。精神的な不安定さから回復するためには、回復しようとするその本人に回復するための精神的な足場がなくてはならない。足場がなくては登ることはできない。井戸に落ちたら独力では登ることができないように。

直子は自殺した。自殺者を救うにはどうすればいいのか。

大正時代以降、日本において最も自殺率の低い年は昭和18年だ(昭和19,20,21年は統計がない)。昭和9年以降、徐々に自殺率が低下し始めている。これは満州事変以降の戦時動員体制の進捗と軌を一にしている。総力戦体制は直子を救える可能性がある。

「ねじまき鳥クロニクル」の主人公「僕」の敵役である義兄「綿谷ノボル」は新進の政治家だ。綿谷が選挙地盤を継いだ彼の叔父というのは、戦前において対ソ連戦のための防寒研究をする軍官僚だった。すなわち日本総力戦体制の一翼を担うような革新軍官僚だったわけだ。綿谷はこの血脈を継いでいる。

「ねじまき鳥クロニクル」の中でノモンハンとか北部満州での描写が多く出てくるのは、日本の戦時総力戦体制を小説的に肉付けするためだろう。
ちなみに総力戦を呼号する現在の安倍総理の祖父は岸信介であり、岸は戦前、満州を総力戦の実験場にした革新官僚群のトップだった。
そして安倍が総理に就任した2012年以降、日本の自殺率は劇的に低下している。
綿谷ノボル陣営は、強力にグロテスクに直子的存在を救おうとしている。それに対して「僕」はどうか? はっきり言って徒手空拳だ。本文中にこのようにある。

「オペラの中では王子さまと鳥刺し男は、雲にのった三人の童子に導かれてその城まで行くのよ。でもそれは実は昼の国と夜の国との戦いなの・・・・・」
ナツメグはそう言ってから、指先でグラスの縁を軽くなぞった。
「でもあなたには今のところ鳥刺し男もいないし、魔法の笛も鐘もない」
「僕には井戸がある」と僕は言った。

井戸があるからどうだというのだろうか?

「僕」はナツメグ、シナモン母子と知り合う。この母子の仕事というのは、本文中には明確には書かれていないのだけれど、どうやら精神的に不安定になってしまったエスタブリッシュメントの子女たちの一時的精神矯正みたいなものらしい。
はっきり言ってしまえばオカルト療法だね。
「僕」は井戸という裏技?を使い、この母子と組んでエスタブリッシュメントの子女たちにオカルト的精神療法を施す。

確かに直子を救うことができるのならオカルトでも何でもいいという論理は成り立つ。村上春樹のオウム真理教にたいする興味は、このあたりから発生しているのではないかと思う。
どちらが直子をより救えるか。総力戦思想vsオカルト療法、ファイ!! みたいなことに結局はなるのではないだろうか。

オカルト療法もなくはないと思う。ローマ帝国だって、その末期にキリスト教というオカルトを導入して帝国の一体性を延命させようとしたのだし。
でも、個人的にはオカルトはちょっと遠慮したい。日本はまだそこまで落ちぶれてはいないと思う。

大体以上が私が「ねじまき鳥クロニクル」を読んでの世界説明なのだけれど、もちろん様々な世界説明があってかまわないと思う。ただし村上春樹も普通の人間なのだろうから、あまりに村上ワールドを巨大に考えてしまうと、それは過大評価だろう。

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ねじまき鳥クロニクルの主人公「僕」は、近所の空き家の庭にある涸れた井戸に縄梯子を下ろして、井戸の底で井戸ライフを送り出す。二日間ぐらいの井戸ライフだったけれども、ページ数にすれば130ページぐらいになる。

「ねじまき鳥」はここまでとにかく井戸押し。第2部に入り、主人公はついに井戸の底にまで降り立った。
井戸といっても普通の涸れた井戸だから取り立てて何もない。井戸の底でファンタジーの扉が開くとか、そういうのはない。普通の井戸。
井戸という観念に何か意味があるのではないか? 大袈裟に言うと、井戸はメタファーであるというということになる。
村上春樹が導こうとする井戸メタファー世界観というのは、私が推測するに、

私たちは井戸の外の世界で当たり前に生活していると思っているけれど、真の世界は実は広大であって、人間は日々生活するにあたりそれぞれの心に井戸を掘り、その底で自分の世界を守りながら生きているのではないだろうか。そして現実に井戸に潜ることで、人間の真の井戸性というものが明らかになるだろう。人間の孤独、共感性、運命などが、より明確になるだろう。

というようなものだと思う。

しかしそもそも何故井戸なのか?
「ノルウェイの森」の冒頭でヒロインの直子が主人公の「僕」に向かって、この森のどこかにすごく深い井戸があるのよ、みたいなことを語っていた。この直子というのはちょっと精神の不安定な女性で、この深い井戸のくだりも、直子が京都北部の精神療養所に収容されている時に、そこを訪れた「僕」に対して直子が語ったところの話だ。
深い井戸とは、精神の不安定な女の子が自殺する前に「僕」に語った無駄話の中に出てくる単語に過ぎない、という考え方も出来る。
村上春樹は井戸に拘る。ここで奇怪なことは、井戸とはそもそも村上春樹が作ったフィクションにでてくる単語に過ぎなかった、ということだ。井戸にこだわるということは、「ノルウェイの森」の直子にこだわるということで、しかし直子とは、村上春樹が書いたフィクションにおける登場人物の1人に過ぎない。井戸に価値を付与して、井戸をメタファーとしての造形したとしても、トータルとしての奇怪さというのは隠せないと思う。

「僕」は井戸の底で夢を見る。
その夢の中で、「僕」の妻の兄がこのように語る。

「愚かな人は世界のありようを何ひとつ理解できないまま、暗闇の中でうろうろと出口を捜し求めながら死んでいきます。彼らはちょうど深い森の奥や、深い井戸の底で途方にくれているようなものです。彼らの頭の中にあるのはただのがらくたか石ころのようなもので、だから彼らはその暗闇の中から抜け出すことが出来ないのです」

彼は全く明らかに「ノルウェイの森」の世界観に喧嘩を売っている。「ねじまき鳥クロニクル 第3部」は、主人公「僕」のこの義兄に対する反撃をメインに展開するのではないかと予想する。
どっちも頑張れって思う。

「ねじまき鳥クロニクル 第3部 鳥刺し男編」 に続きます。


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村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」の主人公「僕」は法律事務所を退職して現在無職。出版社に勤める妻がいる。
飼っているネコがいなくなって、マルタという女性にネコの探索を依頼する。

「海辺のカフカ」でも中田さんの職業がネコ探しだった。そういえば「ノルウェイの森」では、主人公の引っ越し先の下宿にネコが訪ねてきていた。そのネコを探しているのか。

いなくなったネコを探しに、主人公の「僕」は近所の空き家の庭先に行く。そこに井戸があって、石を落としてみたけれど、どうやら水は枯れてしまっているらしい。

井戸? そういえば「ノルウェイの森」で直子が、この辺りには誰も知らない深い井戸があるのよ、なんて言っていた。

井戸のある空き家の向かいに16歳の女の子が住んでいる。例えば彼女のかつらについての考察。
「それでね、まあとにかく、もしあなたがかつらを使っていて、二年たってそれが使えなくなったとして、あなたはこんなふうに思うかしら? うん、このかつらは消耗した。もう使えない。でも新しく買い替えるとお金もかかるし、だから僕は明日からかつらなしで会社に行こうって、そんな風におもえるかしら?」

ん? これは「ノルウェイの森」の緑の口調そのままだろう。
緑の家の裏の空き家の庭に井戸? 

ネコを捜すマルタの妹はクレタという名前で、マルタの助手をしている。クレタの告白によると、彼女は二十歳まで非常な痛みに苦しんできたという。生理痛はひどいし、飛行機やエレベーターに乗ると気圧の関係か頭がガンガンするし、傷は治りにくいし。痛みというのは人に伝えられない。孤独に苦しんで二十歳の誕生日に自殺しようと思っていたのだけれど、二十歳を過ぎたら急に痛みが人並みになったという。
しかし気づいたことは、今までは精神と肉体を痛みがつないでいたということ。痛みがなくなって精神と肉体との間に距離が出来てしまったかのように感じるという。

「ノルウェイの森」の直子のカリカチュア? マルタのファッションというのは、1960年代のファッション雑誌のモデルそのままの野暮ったいもの。「ノルウェイの森」の時代設定もそれぐらいだった。

小説というのは基本的に、まあなんというか現実世界の真理やリアリティーを探求するという面があると思うのだけれど、この「ねじまき鳥クロニクル」という小説は第1部を読む限り、村上春樹世界を探求するという方向に舵が切られている。
こうなると、村上春樹ファンにとってはたまらないけれど、アンチ村上春樹にとっては全くどうでもいいということになるだろう。

私個人としては、意味があるか分からないような井戸やネコ探しに興味が出てきた感じで、何だか少しハルキスト。
第2部、予言する鳥編に続きます。

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「東京奇譚集」のハナレイ・ベイ映画を見る前に読んでおくというのもいいでしょう。

私の村上春樹読書体験というのは、
ノルウェイの森」を読んで、
これはいい、日本近代文学を代表する名作だわ。胸にジンジンくる。
海辺のカフカ」を読んで、
なんだこれ、ノルウェイの森の劣化版だな。直子ファンとか怒り出すんじゃねーの。
アフターダーク」を読んで、
ひどいなこれは。村上春樹、寝ながら書いただろう。
というものだ。

「東京奇譚集」は短編集なのだけれど、正直本当に面白いのかと疑いながら読み始めた。
これが結構おもしろかった。

「偶然の旅人」

村上春樹の友達が神奈川のショッピングモールでオバサンにナンパされてホテルに誘われたけれどヤンワリ断ったという話。ショッピングモールでおばさんに逆ナンというのが奇妙なリアリズムを生む。

「ハナレイ・ベイ」

サーフィンの事故で一人息子を失ったオバサンと、サーフィン好きな二人の大学生とのたいして心も温まらない話。オバサンの口の悪さと二人の大学生のぐだぐださとのコントラストがいい。

「どこであれそれが見つかりそうな場所で」

タワーマンションの24階と26階の間で行方不明になった男を捜すボランティア探偵の話。しかしこの探偵、24階から26階までの階段しか探索しない。タワーマンション高層階の階段なんて誰も使わないだろうと普通思うのだけれど、ジョギングしている人がいたり子供の遊び場になったりと結構階段ライフって楽しそうなんだよね。そのうち行方不明になった男とかどうでもよくなってくるから不思議。

「日々移動する腎臓のかたちをした石」

主人公の男性は、男には人生の中で運命的な女性が3人現れる、と確信していて、この目の前の女性がその2人目かどうかと考える話。読みながら、私には運命の女性がもう3人現れたのかと考える。妻を3人のうちの1人に数えないとまずいよね。じゃあ後の2人は誰にしよう、なんて思っているうちに読み終わってしまった。

「品川猿」

この猿が喋るんだよね。喋り方が「海辺のカフカ」の中田さんにそっくり。これはまずいでしょう。

このように全ての短編でそれなりに楽しめるという。村上春樹、やれば出来るじゃないか。


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村上春樹の「アンダーグラウンド」という本は、サリン事件の被害者の証言を集めた本だ。 

なぜ村上春樹がこのような本を書いたのか、というのを問題にしたい。

あとがきの中で村上春樹は、オウムが他人事ではなかったからではないか、と書いている。  

どういう意味か?

オウム信者と、村上春樹小説の主人公たちには、共通点がある。どちらも、自分が自分であるという意識、すなわち自己同一性に確信が持てなかった、というところだ。

村上春樹小説の主人公たちは、この統合失調症気質をかっこいい個性だと考えて、それをオシャレな音楽や言葉遣いで飾ったりしている。オウム信者は、自己同一性を確立しようとして、自分の世界を縮小した。彼らは、それを出家と称した。

自己同一性というのは、自分と世界との認識の循環によって形成されるものだと、私は思う。大きい茫漠とした世界においては、自分とは何か分からなくなるけれど、小さい濃密な世界においては自分を確立しやすい。

自分から他者へ、他者から自分へ、という認識循環の回転数があがるからだ思う。

良い悪いは別にして、自己同一性の不確実さに向き合う誠実さという一点では、村上春樹小説の主人公たちよりオウム信者の方が上だろう。

これは恐ろしい話でね、誠実に自己同一性を確立しようとして、自分の世界を縮小したら、縮小されたところの空白の世界に暮らす人々は、人間としての意味を失い「物」になってしまう。

物だから、殺しても良心の呵責はない。これはホロコーストと同じ構造だよね。ナチスは、ドイツの一体性を願い、ドイツ世界を縮小して、縮小されたところの空白の世界に暮らすユダヤ人を物としてあつかった。

どうすればいいんだ? 

村上春樹のようにオシャンティーを気取るか、オウムのように人の心を失うか。

解決の道筋はないかのように見える。この世界は、自己同一性が社会参加の前提とされているかのように見える。

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大澤真幸 近代日本思想の肖像 の「世界を見る目」という章は、村上春樹の「アフターダーク」についてのの評論だ。 ピントが外れていると思うんだよね。 大澤真幸は「近代日本思想の肖像」の中で、夏目漱石とか丸山真男とか太宰治とか柄谷行人とかを論じて、いいところまでいっていると思うのだけれど、村上春樹についてはかなり甘いのではないかと思う。  この本の前書きに、20世紀は文学から哲学へという流れだったけれども、21世紀に入って哲学から文学へという流れに変わったと書いてある。  全くその通りだと思う。  ならば、哲学から文学に、とくに村上春樹にはもっと切り込まなくてはならないだろう。大澤真幸の村上春樹論は力不足だろう。  そう思って、私は、私の村上春樹論を書いてみた。

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