magaminの雑記ブログ

カテゴリ: 日常

私は実際、25年前に旭川近くの肉牛牧場で1年間働いたことがある。 なぜ1年なのかというと、当時1年働けば、辞めたあとに、地元に帰って失業保険がもらえたんだよね。 牧場で働いて、そして今思うことは、仕事はきつかったし給料は安かったけれど、そこで働いていた若い男の子女の子はかっこよかったし可愛かったということだ。 だいたいにおいて、大きい牧場で1年も働けば、彼氏彼女は必ず出来る。 これだけは、私は保障する。 なぜ保障できるのかというと、牧場の仕事はきついからだ。  だいたい、北海道という日本の果てまで行って働こうという、誠実でまじめな女性に言い寄られて落ちない男はいない。北海道という日本の果てで働くような心の不安な女性で、まじめに働く若くて力強い男性にアプローチされて、心を動かされないなんてありえない。  東京のマチコンなんかで、パートナーを見つけようとする人たちの一番の不安なところは、相手が誠実な人かどうか分からないところだろう。牧場においては、来て一ヶ月以内に辞める人というのは半分ぐらいいる。すなわち、1ヶ月で異性としてのある程度の価値が保障されるわけだ。 これはかなりの効率だ。 逆に言えば、それだけ牧場の仕事がきついということなのだけれど。 

私は、「自分探し」ということに否定的ではない。  若者の「自分探し」に否定的な大人も多いと思う。たぶん、「自分探し、で本当の自分を見つようなんて馬鹿げている。自分が自分であるというのは当たり前であって、ここ以外の場所に本当の自分がいるなどというのは甘えだ」 という意見だと思う。    しかし、自分が自分であるというのは本当に当たり前なのだろうか。それが当たり前なら、分裂病や神経症という「自分が自分であるということに確信が持てない病気」になる人々が、日本だけで何百万人もいるというのはどういうわけなんだ?  自分が自分であるということは当たり前となっているにもかかわらず、それにふさわしい訓練が学校や家庭で行われるかというと、そうでもない。  馬鹿でない限り気がつく、ここまでは何とかやってこれたけど、ここから先を頑張れば自分が自分でなくなってしまうのではないかって。 こんな時に、「自分が自分であるのは当たり前だ、突撃せよ」 なんていうのは残酷過ぎないだろうか。  自分探しでも何でもやって、自分が自分であるという確信を養う時間も必要だ。レールから多少外れるかもしれないけれど、まあ死ぬよりマシだろう。  

戦争の手段としての軍隊を保持しないという、あの9条について。  戦後リベラルの論理というのは、戦争をしないために軍隊を放棄するというところからさらに押して、軍隊がないから戦争がないということになっているのだろう。しかし、軍隊がないから戦争がないという論理は、無条件に与えられるものではなく、明らかに何らかの前提の上に与えられている。 ではその前提とは何か?  戦後、日本国憲法が制定された時、徳富蘇峰はこのように書いた。  「武力を排除したる文化国というものが、果たして出来得べしとすれば、それは今後における、新たなる試験というのほかはあるまい。ここまでには世界の歴史に、左様なれいは、絶対に無かったということが出来る。しかるにかかることを平気で、朝飯前の仕事のごとく、言いなしている日本の有識階級は、実に驚き入りたる肝っ玉の持ち主といわねばならぬ。これは大胆でもなければ、豪胆でもない。全く彼らの軽佻浮薄の浮動性が、彼らをかりて、ここに至らしめたるものというの外はあるまい」  明治大正昭和を生き抜いた蘇峰は、戦争放棄による平和国家の前提なるものを思い浮かべることが出来なかった。  普通、そうだろう。  戦争放棄による平和国家成立に前提があるのなら、憲法改正を拒否するものは、その前提を明確にしなくてはならない。  私は別に、出来ないことをやってみろと言っているわけではない。 例えばこのような論理はどうか?  中国という国は歴史的に他国を侵略するということに消極的だ。近年中国は強烈に成長していて、すでに経済規模は日本のほぼ3倍だ。日本は中国の影響下に入ることによって、軍隊を保持せず平和を維持することが出来るだろうという、ネオ大東亜共栄圏みたいな。

結婚したら自由がなくなるとか、他人と一緒に暮らすのがムリとか、自分なんてどーせとか、結婚しない理由がこの程度なら話にならない。自分がまず救われようというのでは、結局蜘蛛の糸だ。何よりもまず、人を救おうと考えないと。人を救うことによって、自分も救われるんだよ。男として生まれてきて、女の一人も救えないって、それなんなんだ。誰もがギリギリで生きていて、自分を投げ出さなくては女を救えないとするなら、自分を投げ出せばいいだろう。自分を投げ出さなくては誰も救えない自分なんて、そもそも守る価値なんてたいしてないだろう。  自分には価値がある、自分はナポレオンだ、などと思ってはダメだ。アイツがナポレオンなら、私はナポレオンの母親だ。 自分の自由とか、自分のペースとか、自分のコンプレックスとか、そんなもの、死ねばいつでも無だよ。だから人を救わなくてはならない。人類を救えとか言っているわけではない。懇親の力で一人の女を救えと言っているだけだ。余裕があれば、2人3人と救うのもありだ。  男の傲慢のように聞こえるかもしれないけれど、それは心配ない。向こうも同じようなことを思っているから。

昭和の終わりごろまで、事件があると、新聞やテレビでコメントするのは小説家だったりしたことがある。今から考えると、ちょっと変な感じだ。おそらく小説家というものに知的権威というものがあったのだろう。 小説家の権威が失われてくると、次は精神科医とか社会学者とかがその穴を埋めるみたいなことになって、そして今はどうなのだろう。 多くの人は何によって、自分の知的空隙を埋めているのだろうか。  小説家や精神科医が知的権威だったというのは、結局どういうことだったのだろうか? そもそも小説家や精神科医などには、人間を人格として成長させるという能力はない。敢えて言えば「人間通」ということなのだろうが、普通に考えて「人間通」という漠然とした価値観など認められない。かつての知的文化人なるものは、根拠のない空談を唱えていただけで、彼らはまぎらわしいことを言っていても、ほんとうはなお臆病なエゴイストだったというのが真実だろう。   テレビや一般紙の凋落というのは、このような時代変化の結果であって、内実が空洞化したから、その枠組みもふさわしいサイズに縮小していく過程であるだろう。

かつてモンゴルがユーラシア大陸に一大帝国を築いたことがあった。あれなんであんなに急速に巨大化したのかというと、やじりに鉄を使うようになったからだという。  中国が(北宋.遼)の時代、鉄は禁輸品だった。北部国境において厳しく検査が行われた。ところが(南宋.金)の時代になって、金において鉄の管理がルーズになった。モンゴルに鉄が広まって、あの結果だ。  核とかミサイルとかも、かつての鉄と同じで、流出の仕方によっては世界史を塗り替えることもありえると思う。  文明とかいったって、生々しい暴力の前では案外もろいものだ。

こだわりを持って生きている人っている。周りの人からは、理解不能の変人扱いされがちだろう。このような人は、何らかの思いが特定の物に凝固してしまっているのだろう。他人からは、その物を合理的に推定できないから、理解不能扱いされるわけだ。それぞれの趣味を持つ変人ごとに集まってコミュニティーが出来るのだろうけれど、彼らは互いに理解しあっているのだろうかと思う。思いが同じ物に凝固しているとしても、そこに至った過程というものは、それぞれ異なるだろうし、石の思いの孤独みたいなものが癒されるなんてことはないだろう。   近代社会というのは、こだわりが否定されて合理性が重視される世界だ。伝統が否定されたなら合理性に寄りかかるしか道はない。残酷なことになっている。こだわりは追い詰められている。石の思いは、合理性のなかに自分が消えてしまうような不安を抱えているだろう。   どうすればいいのか。こだわりを捨てて自分の世界観を合理的なものに再編成するべきなのか。今から? とてもムリだろう。  何であいつは、みたいな議論って会社でよくあると思うのだけれど、私は「何で?」と問うべきではないと思う。おそらくそこには残酷な答えがあるのだろうし、誰もそんな残酷さを本当に知りたいなんて思ってないだろう。  攻撃する必要はない。なつかれない程度にそっとしておいてあげればいい。

今47歳なのだけれど、若いころは恋愛もした。大学の時好きな女の子が出来て4年間追いかけ回した。ストーカーみたいなことをやると嫌われるから、一応好きだということだけは伝えて、2週間に一度ぐらい電話する関係を4年間。その間に彼女は、彼氏を2回ほど変えた。そんなことにもめげず、最終的には彼女に「自分の好きな人は実はそばにいたんだ」と思わせる状況に持っていけた。童貞だったのだけれど、何回かやらせてもらったら、私の彼女への恋愛感情はきれいに昇華した。    あの情熱ってなんだったのかなーって思う。今、とてもそんなことは出来ない。エネルギーが落ちたというよりも、女性ってこんなものだろうみたいなことが分かっちゃったからだろう。   今でも男だから、前を歩いている女性のお尻がすばらしくて、胸にグッとくるというのはある。でもそれだけで、ただのお尻だし何をどうしようとも思わない。しかし自分の若いときは、女性の人格ごと胸に来るみたいな感じで、これはもう抵抗できないんだよね。  性欲って根源的な欲望ではあるけれども、制御不可能というほどのものではないだろう。性欲という一般的な欲望が、個別というものに凝縮されると、強力なる怪物になるんじゃないだろうか。言い換えると、性欲が個に凝固すると、人格という意味内容を付加されて、巨大な姿となって迫ってくる。  私の場合、最終的にやらせてもらったからいい想い出だけれど、下手をすれば時間の彼方への忘れ物みたいなことにだってなりかねなかったわけで、本当に危なかった。  25年前か、シーツを胸元まで上げていた彼女は美しかった。美というのは普遍にではなく個別にある。

なにか不安だったり、精神が不安定だったりしてウンザリするなら、何か一つの事を強く信じるようにすればいい。信じる観念は何でもいいよ。一旦信じたら、その信念によって自分の中の価値観を秩序付ける。そして殺されても自分の決めた信念を守るという覚悟をする。実際にただちに殺されることもないだろうし、とりあえず覚悟だけをする。そのうち本物の覚悟が育ってくる。   例えばアイドルオタクとかは、このようなシステムを使って自らを救っているのだと思う。自分の決めたアイドルを信じて応援して、その信念によって自分の世界の価値観を整除して、その中から生きるエネルギーを拡大調達しているのだろう。普通の人はアイドルとか馬鹿馬鹿しくて応援できないのだけれど、結局誰にとっても強く生きるためには、何かを確信するという必要性は残る。何も確信するものがないという人は、頭はいいけれど不幸ではある。その頭の良さを生かして、ちょっと何かを試しにだよ、信じてみればいい。確信というのは与えられるのを待つだけではなく、自分で勝手に信じちゃうみたいなこともアリだと思う。

何年か前に、高校の同窓会に行ったことがある。私にとっては25年ぶりの集まりだった。私が行った高校というのは、中高一貫の進学校で、すなわち高校の同窓会といっても、中学の同窓会も兼ねている。驚いたのは、医者、歯医者、弁護士、会計士、という職業のやつが多かったことだ。半分以上、そんな感じだった。  聞いてみると、親の地盤を継いでいるわけだ。そもそも親が会計士だったなら、子供にも会計士になってもらいたいということで、子供を中高一貫の進学校に押し込んでいたわけだ。そして子供も親の期待に見事にこたえたという。  悪くないことではあると思う。しかし自由というのはどこにあるのかと思う。  私の親は八百屋で、そんなものを継ごうなどと自分では一度も思ったことはなかった。高校の時も、自分は自由で、世界も自由で、周りの友達も自由なのだろう、と思っていた。ところが高校時代の同級は、自由なようでけっこう型にはめられていたのだなと感じた。  このようなことは、私には耐えられなかっただろう。親が会計士だから、自分も会計士になるなんて、考えただけでも恐ろしい。 普通はレールから外れるのが怖いらしいのだけれど、私はレールに乗り続けるのが怖かった。 一度しかない人生なのに、失敗しないためにレールに乗って人生終わって、それに何の意味があるの、と思った。  中高一貫の学校で、自分は成績もそこそこで、帝国大学の上位校まで行ったのだけれど、途中でやめちゃって、ブルーカラーのトラック運転手になった。それから25年たった。給料は安いけれど、社畜なんていうことはない。ずっと孟子を読んでいる。この世界は生きる価値があるのではないか、とは思っていたのだけれど、孟子を読んで、それは確信に変わった。  正直、危なかったと思う。  あのままレールに乗っていたら、ギリギリの能力を社会に要求されていたのなら、孟子にまで出会うなんていうことはありえなかっただろう。  二十歳のころの自分が抱いた、世界は自由なはずなのに何故か自分のためのレールが存在する、という違和感。あの感覚は正しかった。 この世界の真実はレールではなく自由の方にあると47歳になって確信する。  このような確信は、奇妙とも思えるだろう。  しかし、この世界は生きる価値があるという確信は揺らがない。事実だからしょうがないとしか言いようがない。

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