magaminの雑記ブログ

カテゴリ: 読書日記




竹内好は戦前戦後の中国文学者.評論家です。



日本の中国観には、

中国は遅れた国であるという侮蔑感、
遅れているはずの中国は実は巨大な国であるが故の侮蔑感を裏返した恐怖感、
同じアジアの一員であるという親近感、
この3つがあるという。
言われてみれば、これは現代でも同じかなと思う。私なんかは個人的に中国史が好きなので、勝手に中国に対する親近感を醸成してしまっているのだけれど、今まで中国を遅れた国だと軽蔑していた人は、21世紀に入っての中国経済の急成長に恐怖感を抱くというのはあるだろう。



この日本の分裂した中国観を切り口に、竹内好は太平洋戦争の原因について考えている。

太平洋戦争の前に日本は日中戦争を戦っていた。日中戦争の本格化というのは昭和12年の第二次上海事変からだろう。中国相手だからどうせすぐ勝てるだろうと思って、軍部はこの戦争を始めたのだろう。太平洋戦争が始まる前の御前会議で、杉山元が昭和天皇から対米開戦の勝算を尋ねられ楽観的な回答をした時に、昭和天皇から



「汝は支那事変勃発当時の陸相である。あのとき事変は2ヶ月程度で片付くと私にむかって申したのに、支那事変は4年たった今になっても終わっていないではないか」



と突っ込まれていた。楽観というか中国を甘く見ていたというのはあるだろう。

日本軍は南京を落として勝ったと思ったのだろうけれど、蒋介石は重慶に立てこもって戦うという戦術を取った。中国の粘り腰を眼前に見続けて、日本軍には巨大な大陸に対しての恐怖感というのは生まれてくるだろう。

戦前の日本には欧米の植民地にになっている多くのアジアの地域が開放されるべきだという考えが確かに存在した。決して否定できない美しい考えだと思う。アメリカの大恐慌以降の切迫した状況で、日本と中国が手を取り合って欧米諸国をアジアから叩き出すべきだという考えに整合性があっただろう。手を結ぶべき中国が、イギリスの手先になって国内を統治するというのは許せない。
(このとき中国はイギリスの援助で銀本位制を確立して経済が安定しつつあった)

中国は日本と組むべきであって、一撃すれば中国も目が覚めるだろうと。しかし日中戦争は長引いて、心ある日本人も、この戦争は中国に対する侵略戦争ではないかと暗鬱とした気持ちになった。 



侮蔑、恐怖、親愛。



中国にとってはいい迷惑なのだろうけれど、日本にとっては政治的にどうにもならないどん詰まりに追い込まれてしまった。

その全てを解決する方法が対米戦争だった。



なるほど。この考え方にはある一定以上の整合性がある。失われてしまった時代の雰囲気を再構成しようという気概がある。太平洋戦争は軍部の暴走であるという簡単極まる歴史観よりははるかにマシだろう。



上記は竹内好の評論を論理の部分だけを取り出して私なりに再構成したもので、本当の竹内好の凄みというのは論理の向こう側にある。明治大正昭和それぞれの内側から時代の雰囲気を見ようとするその誠実さ。しかし別の世界を完全に理解することは不可能であろうという諦念からくるリリシズム。

例えばこんな感じ。



(日本ロマン派は戦争を煽ったということで、戦後において悪名が高い。日本ロマン派の中心であった保田與重郎についての一部分)

「小林秀雄は、事実から一切の意味を剥奪するところまで歩むことはできたが、その先へ出ることはできなかった。保田という巫が、思想の武装解除を告げに来るのを待つより他なかった。そしてそれは来た。知的戦慄の一撃とともに来たのである」



「近代の超克」の一部を抜粋しただけなので分かりにくいかもしれないのだけれど、前後を精密に読めば、ちょっとたまらないものがある。

韓国はなぜ反日にこだわるのでしょうか?

結論から言うと、韓国においては「反日」が韓国社会の一体性を保つための中心概念になっているからです。
集団や組織内での価値の源泉というのは、突き詰めて考えるとその一体性ということになります。人間の場合、人間社会の一体性というのは無条件には与えられていません。人間は社会的動物だとか教科書には書いてあったりするのですが、100人程度の集団なら自然と一体性というものも発生するでしょうが、広域社会における一体性を形成するためには、歴史的な跳躍が必要となります。


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巨大社会において一体性を保つための技法というのはいくつかあります。もっとも簡単で有力なのが、唯一の神を設定して一神教的宗教で社会の一体性を担保する、というやり方です。ユダヤ教がこの技法の始まりで、キリスト教やイスラム教に引き継がれていきました。

他にも、例えばローマ帝国の一体性の根拠というのは、帝国の巨大化という理念です。ローマ帝国は領土の巨大化を実現してしまって、その一体性の根拠である理念が失われてしまったら直ちに弱体化してしまいます。ローマ帝国は一体性の崩壊を回避しようとしてキリスト教を国教にしたりするのですが、一体性の崩壊を食い止めることができませんでした。

東アジアにおいて社会の一体性の根拠というのは儒教になります。
現代日本は儒教とは関係ないと思っている人は多いと思いますが、日本もがっつり儒教圏です。
儒教(正確には朱子学なのですが)における社会の一体性を維持するための技法のというのは、正しいとされる理念を設定して、その理念により近づくために社会の構成員が互いに競争するよう仕向けるということです。

このことは言葉で書き表すと奇妙に響くのですが、日本社会も実際に儒教的社会構造になっています。戦後の日本で正しいとされた理念というのは、民主主義、市場経済、合理性などの徳目の関係性ということになります。戦後の日本社会というのは、民主主義、市場経済、合理性の徳目をめぐって国民が互いに競争して、国民全体が結果として中産階級を目指すことで社会の一体性を担保しようとする社会でした。

韓国においてもこれと同様なのですが、日本と異なるのは韓国内で正しいとされる徳目の中に「反日」が入っていることです。ですから、反日思想が社会的に評価されるような構造になっています。

日本においてはメディアに民主主義専門家や合理性専門家のような人物が登場してもっともらしいことを語るのと同様に、韓国においてはメディアに反日専門家なる人物が登場してもっともらしいことを語ります。
そしてこのもっともらしい言説を理解できないとバカのレッテルを貼られてしまうので、社会の周辺部の人はともかく、社会の中心にいると自覚している人は設定によって正しいとされただけの言論を簡単に受け入れてしまうのです。受け入れないとバカ扱いですから。

韓国の行動は一見奇妙に見えるのですが、日本も同じような儒教的枠組みで社会が成立している部分もあるわけで、あまり韓国を100%否定するのもどうなのでしょうか。ただ日韓両国の理念をめぐる(儒教的には「理」という)争いですから、妥協の余地もあまりないのですが。


最期に
日本の立場に立ってここまでの日韓の関係性の流れを簡単にまとめます。

1 1910年に日韓併合条約によって大韓帝国(現在の韓国と北朝鮮)は日本の一部となった。これを韓国は日本の侵略であったとしている。日本としては日韓併合は難しい世界情勢の中で日韓が共に生存していくための戦略であったと主張したいのだけれど、当時、日本人には朝鮮人に対する強い差別意識があって、戦後日本においては、日韓併合には日本の韓国に対する侵略の面があったと認めるのが普通。

2 戦後、韓国は第二次世界大戦において日本と戦った戦勝国であるという論理を展開するのだけれど、飛躍した論理だけに国際的に認められず、日韓の間で国交の正常化が遅れていた。
日本としては第二次世界大戦当時、韓国は日本だったわけで、韓国が戦勝国であるというのは認められないという立場で、韓国としては第二次世界大戦当時、中国戦線で韓国人の反日組織が日本軍と戦ったという事実により韓国は戦勝国であるという立場。
1965年、アメリカの仲介で、日本と韓国は韓国内にある日本資産の放棄、韓国への5億ドルの補償金などにより、日韓両国間の請求権の「完全かつ最終的」な取り決めとして、日韓基本条約が結ばれた。

3 2018年、戦中に日本で働かされた韓国人に当の日本企業が賠償しろという判決が韓国の最高裁で出された。日本は日韓基本条約違反であると反発。

4 2019年8月 日本は韓国を輸出管理の優遇対象国から除外するという報復行動に出る。

5 同年同月 韓国は日韓軍事協定破棄を決定。


大正3年に始まった第一次世界大戦は大正7年に終わります。

日本にとって第一次世界大戦は天祐で、景気が過熱し成金が大量に発生します。戦後日本で言えば、1980年代冷戦末期におけるあの大バブル期みたいなものです。

大正7年時の総理大臣は原敬です。

原敬は当時の大政党である政友会の実力者で、明治政府藩閥政治の牙城を徐々に崩して本格政党内閣を作りました。
原敬の政治基盤というのは地方の名望家で、地方にいかに公共事業を配分するかというのが原敬の政治力の源泉でした。戦後日本で言えば、竹下登や金丸信ということになりますか。

政治力の源泉が公共事業の配分という場合、疑獄事件というのが起きやすいのですが、そのような政治腐敗に憤慨した一青年によって、大正10年原敬は暗殺されます。

第一次世界大戦後だんだん不景気になって来るのですが、それに追い打ちをかけたのが大正12年の関東大震災です。
そのような閉塞状態を脱却しようということで普通選挙運動というのが盛り上がります。
大正末の日本の選挙制度は、ある一定の税金を納めた男子しか投票権がないという制限選挙だったのですが、普通選挙運動というのは、この納税額の縛りを取り払おうというものです。

この普通選挙運動を主導したのが、政友会のライバル政党である憲政会です。
この普通選挙運動の盛り上がりによって憲政会は政権を取り、大正13年憲政会の党首である加藤高明は総理大臣となります。

これは、1993年に選挙制度を小選挙区制にすることが政治改革であるとして非自民政権をつくった細川政権と似たところがあります。

政治改革で景気が回復するわけではありません。第一次世界大戦後の継続的な景気の悪化で、銀行に大量の不良債権が発生します。昭和2年、台湾銀行という当時の大銀行がヤバくなって、総理大臣であり憲政会の党首であった若槻礼次郎は台湾銀行に公的資金を投入しようとするのですが、これを枢密院によって拒否され、若槻内閣は総辞職します。
枢密院というのは、今でいう有識者会議みたいなもので、大相撲で言う横綱審議委員会的なものです。

昭和2年の若槻内閣崩壊というのは、1996年の村山富市内閣崩壊と似ています。当時の村山富市も住専処理問題解決に自信がなかったから内閣を投げ出したと言われています。

憲政会の若槻内閣の後は、政友会の田中義一内閣です。陸軍大将だった田中義一を政友会が党首にするために引き抜いたという経緯があって、田中義一内閣というのは武断的な内閣でした。

当時の昭和天皇および西園寺公望などのとりまき貴族というのは思想的にリベラルで、田中義一内閣が気に入らなかったのです。
昭和3年、張作霖爆殺事件というのが起こって、昭和天皇が田中義一を叱責するということになって、田中義一内閣は崩壊。憲政会の浜口雄幸が総理大臣になります。

当時の昭和天皇と取り巻きの大貴族を現代で例えるなら、平和憲法とそれを支える大マスコミということになるでしょう。
2009年、自民麻生内閣をさんざん叩いて、国民を民主党政権に誘導したのは大マスコミでした。
昭和天皇勢力は、田中義一叱責事件以降、軍をコントロールできなくなっていくのですが、大マスコミも10年前の民主党キャンペーン以降その力を失っていったのと似ています。

昭和4年、ニューヨーク株式の大暴落が起こり、世界的大不況が始まります。
この大不況に対して憲政会の浜口内閣の取ったのは金本位制に基づく金解禁政策というものです。金解禁政策とは簡単に言うならば「円高」政策です。円高によって非効率な国内の産業を淘汰して、より筋肉質な経済体制をつくろうというものです。

昭和6年、イギリスが金本位制を離脱します。

ヘゲモニー国家イギリス自らの金本位制離脱により、憲政会はその政策の基盤を失います。憲政会の第二次若槻内閣は崩壊して、政友会の犬養毅内閣が成立します。

憲政会は金本位制にこだわるのですが、昭和7年の総選挙で政友会に敗北します。

そして、昭和7年5月15日、五一五事件により犬養総理が暗殺されます。

憲政会の取った「円高」政策というのは、リーマンショック以降民主党の取った円高政策と政治思想的には同じでしょう。景気の悪い時こそ我慢しようという、立派な中産階級向けの政策なのでしょうが、多くの国民がついてこれなかったという。
政治家やマスコミは苦しい時こそ頑張れというけれど、国民にしてみれば、

「そりゃーお前らはいいよなー」

みたいなことになってしまいます。

昭和7年以降も同じで、天皇やその側近、政党政治家の信用は傷つき、国家全体に対する統制力が失われてしまって、太平洋戦争敗戦に至る激動の時代が始まったということになるでしょう。










日本改造法案大綱
大正十二年五月


1 華族制廢止

2 貴族院ヲ廢止
3 普通選拳
4 私有財産限度。日本國民一家ノ所有シ得ベキ財産限度ヲ壹百萬圓トス

5 私有地限度。日本國民一家ノ所有シ得ベキ私有地限度ハ時價拾萬圓トス
6 私人生産業限度。私人生産業ノ限度ヲ資本壹千萬圓トス
7 幼年勞働ノ禁止。滿十六歳以下ノ幼年勞働ヲ禁止ス
8 國民教育ノ權利。國民教育ノ期間ヲ、滿六歳ヨリ滿十六歳マデノ十ヶ年間トシ、男女ヲ同一ニ教育ス
9 國民人權ノ擁護。日本國民ハ平等自由ノ國民タル人權ヲ保障セラル
10平等分配ノ遺産相續制。
11朝鮮人ノ參政權。約二十年後ヲ期シ朝鮮人ニ日本人ト同一ナル參政權ヲ得セシム
12有婦ノ男子ニシテ蓄妾又ハ其ノ他ノ婦人ト姦シタル者ハ婦ノ訴ニヨリテ婦人ノ姦通罪ヲ課罰ス
13
國民教育ノ期間ヲ、滿六歳ヨリ滿十六歳マデノ十ヶ年間トシ、男女ヲ同一ニ教育ス

若槻礼次郎の明治大正昭和政界秘史を読んでのレビューです。

若槻礼次郎というのは、大正、昭和と二度総理大臣になった、かなり有力な政治家です。
昭和以降、二度総理大臣になった人物は4人しかいません。

若槻礼次郎
近衛文麿
吉田茂
安倍普三

若槻礼次郎は、究極的に頭の回転が速い人物です。慶応二年、明治維新の二年前ですね、島根県の貧乏な足軽の家に生まれます。コネも金もないところから総理大臣にまで上り詰めたのですから、よっぽどの刻苦勉励があったのかと思いきや、同書の中にたいした努力の描写もなく、東大に入り、大蔵省に入り、大蔵次官にまでなります。桂太郎に気に入られて、桂内閣の時、大蔵大臣。同書では、何故桂太郎に気に入られたのか、ということは書いてはいないのですが、行間を読むと、仕事が出来る、すなわち頭の回転が速いから自然と気に入られた、という感じです。で、桂太郎の誘いで、同志会の結党に参加。同志会総裁加藤高明内閣の時、内大臣。加藤高明逝去のあと、大命降下で総理大臣。

頭の回転の速い人物には、激動の昭和戦前も「簡潔」に見えています。

昭和恐慌の引き金になった、片岡直温蔵相の渡辺銀行破綻発言は第一次若槻内閣の時ですが、同書によると、この発言自体はたいしたことはなかったのだが、その後議会で政友会が、それ若槻が困っているぞ、もっと財界の暗部をばらしてやれ、見たいな質問を立て続けにしてくる、これには参った、とあり、それが台湾銀行の問題につながっていったと書いてあります。

第二次若槻内閣の時、満州事変が起こります。関東軍支援のために、朝鮮司令官林 銑十郎が二個師団を朝鮮から満州に送ったのですが、これが大問題。当時、朝鮮は日本であったわけで、国内の軍隊を天皇の勅裁もなく、議会も通さず、満州という外国に派遣するなどということは、まさに統帥権干犯です。若槻はこの二個師団の派兵に対して、予算措置をとらないという判断も出来たのですが、あっさりとその予算を認めます。戦前史の本のほとんどは、この若槻の判断を軍に対する弱腰、と非難しています。で、若槻の同書によると、この部分は、「朝鮮の師団が出てないならともかく、もう出てるんだから。兵隊が飲まず喰わずというわけにはいかない。満州軍が非常な冒険をしているのだから、これが全滅でもしたら、満州の日本人居留民どうなるのか」という判断で予算を許可。頭の回転が速いことをうかがわせる、まことにあっさりした判断です。

太平洋戦争が始まると、「こんなイケイケどんどんの戦争は、戦争ではない。子供の戦争ごっこだ」と一刀両断。一番面白いところは、東条英機の第一の参謀鈴木貞一について、
「鈴木というのは奇妙な答弁をする男で、石油生産の目標達成は日本国民に愛国心がある以上必ず出来る、などという答弁をする。こんな男をつかまえて問答する気にはなれない。あるとき東条一人に話を聞こうと思って呼べば、東条は鈴木を連れて行っていいかと聞く。こちらはそれが困るのである」
ちなみに、この鈴木貞一は戦後も生き残り、佐藤栄作などのブレインでもあったという。

若槻の同書は、簡潔で分かりやすく、面白い。頭がいいことが、それなりの価値を生む、そういう人生観。「真の価値なんてものがない以上、その程度の価値で手を打つしかないのでは」、若槻は私たちにそう訴えかける。きわめて現代的である。

本当にそうなのだろうか。


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【太平洋戦争の原因】


結論を先に言ってしまうと、当時の日本にとって対米戦争を回避するという選択が、政治的に不可能だったからというものです。

これは、現代日本において、社会保障を減額するという選択が、政治的に不可能なのと同じです。



閭梧勹, 螢∫エ�, 鬆ュ闢矩ェィ, 縺ゥ縺上m, 謌ヲ莠�, 證励>, 諤悶>, 豁サ


試しに太平洋戦争に至る道をさかのぼってみましょう。

【昭和16年9月の御前会議】
【昭和12年8月 第二次上海事変】
【昭和12年7月 盧溝橋事件】
【昭和6年9月   満州事変】




【昭和16年9月の御前会議】

昭和16年8月のアメリカの対日石油全面禁止を受けて、第三次近衛内閣時に行われた御前会議。

アメリカの経済制裁解除が、対米戦争回避の条件として決定された。のちにアメリカは経済制裁解除の条件として、日本軍の中国大陸からの撤退をあげてきた。

当時、日本は中国大陸で何年も日中戦争を戦っていて、アメリカの恫喝によって中華民国と講和するというのは政治的に極めて難しかった。

ではそもそも、日中戦争とはなぜ起きたのだろうか? 


【第二次上海事変】


日中戦争の直接の原因というのは、昭和12年8月13日、中華民国軍が上海にあった日本租界に進駐し、それに対して日本軍が反撃した「第二次上海事変」にある。
はっきり言ってしまえば、中国軍の先制攻撃だ。

やられたらやり返すの精神で日本軍も反撃して、日中戦争という大戦争になってしまった。

先制攻撃した中国が悪いと言えなくもないのだけれど、それまでの日本による対中政策が極めて挑発的で、現代において日中戦争の原因論で日本の肩を持つような論調はほとんどない。

第二次上海事変に至る道として、中国の対日感情が極めて悪化した事件がある。


【盧溝橋事件】


昭和12年7月7日に北京近郊の盧溝橋で日中両軍の衝突事件が起きた。どちらが最初の一発を撃ったか、なんていう議論もされるのだが、大きい枠組みで考えれば、最初の一発とかはたいした問題でもないだろう。

中国軍の最高責任者であった蒋介石は、この事件によって対日戦争の腹を固めたとされている。

しかしそもそも、なぜ日本軍が首都北京の近郊に軍事展開していたのか?


【満州事変】


昭和6年9月18日、日本軍は現在の中国瀋陽市で自作自演の爆発事件を起こし、それに乗じて、現在の中国の遼寧省・吉林省・黒竜江省などを占領した。
日本はこれらの地域を、昭和7年、満州国として独立させた。

現代から見ると、日本はちょっと考えられない乱暴をしている。

そもそもなぜこのようなことを日本軍がおこしたのかというと、日本は満州に「満州鉄道」という権益を持っていた。
昭和に入り、中国でも国民運動が高まって、この満州権益が中国に回収されそうになっていた。

この満州権益というのは、日露戦争で手に入れたもので、日本はこれを政治的に手放すことができなかった。


【結論】


どこまで遡っても、太平洋戦争の根本的原因などというものは発見できないです。
太平洋戦争は、選択可能な政治判断を積み重ねた結果としか言いようがないですね。




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 第3位
二二六事件で生き残った将校の50年後の座談会での清原康平の発言。

「226の精神は大東亜戦争の終結でそのままよみがえった。 あの事件で死んだ人の魂が、終戦と共に財閥を解体し、重臣政治を潰し民主主義の時代を実現した」

反論の出やすい発言だろうと思うけれど、清原はこの発言の上にさらにこうかぶせてきた。

「陛下の記者会見で、
 記者 おしん、は見ていますか
 陛下 見ています
 記者 ごらんになって如何ですか
 陛下  ああいう具合に国民が苦しんでいるとは知らなかった
 記者 226事件についてどうお考えですか
 陛下 遺憾と思っている

遺憾と思っているという言葉で陛下は陳謝された」

 第2位
磯部浅一 「獄中手記」

「天皇陛下、この惨たんたる国家の現状をご覧ください、陛下が私共の義挙を国賊反徒業と御考え遊ばされているらしいウワサを刑務所内で耳にして、私共は血涙を絞りました。
陛下が、私共の義挙を御きき遊ばして
 日本もロシアのようになりましたね
ということを側近に言われたとのことを耳にして、私は数日間、気が狂いました」

いかんね。ロシア革命というのは貴族と庶民とが懸絶してしまった結果起こったもので、日本一体性のアンカーである天皇自らが、日本もロシアのようになりましたね、では何がなんだかわからない。磯部はさらにこのように続ける。

「日本もロシアのようになりましたね、とはいかなる御聖旨かわかりかねますが、何でもウワサによると、青年将校の思想行動がロシア革命当時のそれであるという意味らしいとのことをそくぶんした時には、神も仏もないものかと思い、神仏をうらみました。
天皇陛下 何という御失政でありますか 何というザマです 皇祖皇宗に御あやまりなされませ」

そりゃあ言われるよ。言われてもしょうがない。

 第1位
安藤輝三部隊の鈴木貫太郎侍従長公邸襲撃

安藤大尉は、拳銃の弾を4発打ち込まれて倒れた鈴木貫太郎にとどめをさそうと軍刀に手をかけた。夫人が侍従長をかばうように体を投げ出すと、安藤大尉は彼女の気持ちにうたれて思いとどまり、折敷け! と命じて自ら黙祷し、立ち上がると、

「閣下に対し、捧げ銃(つつ)!」

と挙手の礼をし、静かに部屋を出て行った。
鈴木貫太郎は回復し、終戦時の総理大臣となりポツダム宣言を受託した。
後、鈴木貫太郎は安藤大尉は命の恩人であると語っていたという。

日露戦争の時の総理大臣は桂太郎だ。この後、西園寺公望-桂太郎―西園寺公望―桂太郎と続く。この明治34年から大正2年までを桂園時代(けいえんじだい)という。

第3次桂内閣の後の総理大臣は海軍大将山本権兵衛(やまもと ごんのひょうえ)をはさんで大隈重信。その後は陸軍大将寺内正毅(てらうち まさたけ)をはさんで原敬。

原敬は大正10年11月4日、総理在任中に暗殺された。

これは明治34年から大正10年までの歴史的事実だ。そしてこの歴史的事実に何らかの歴史的必然性というものはあるのだろうか。

それはあるのかもしれないし、ないのかもしれない。必然性があるとしても、それは進歩かもしれないし堕落かもしれない。

文久3年生まれ、明治大正昭和を生き抜いた大言論人徳富蘇峰はこのように語る。

「大東亜戦争は世界水平運動の一波瀾であった。いってみれば、明治維新の大改革以来の、継続的発展であり、いわば明治維新の延長であるといっても差し支えない。いやしくも一通りの歴史眼を持っているものは、この戦争は全く世界の水平大運動の、連続的波動であったことを、看過することはできない。しかるにその水平運動は、運動の拙劣であったために、水平どころか、さらに従来の差別に比して、大なる差別を来したることは、所謂事志違うものというの外はない。即ち水平運動の仕損じである、失敗である」

徳富蘇峰は明治維新から太平洋戦争にいたる時の流れを、世界水平運動の継続的発展である、と言っている。このラインに沿って、明治34年から大正10年までの政治的展開を考えてみようとおもう。

日露戦争は当時の日本なりの総力戦だった。

北一輝は日露戦争の帰還兵に、「一将功成りて万骨枯る」と書かれたビラを配ったという。さすが総力戦思想のカリスマだ。明治国家で虐げられている一般兵士がいくら命を賭けて戦っても、名誉は支配者層に回収されてしまうだろう、というわけだ。

分裂した社会状態では総力戦を戦うことはできないということをヨーロッパ列強が明確に理解したのが第一次世界大戦(1914から1918年)だ。日露戦争終戦は1905年だから。

日露戦争を経験した日本人は、より厳しい総力戦を戦うためには日本のさらなる一体性、さらなる水平化が必要であるという「ぼんやりとした観念」を持っただろう。

桂太郎は長州奇兵隊出身であり、山県有朋の子分格だ。明治維新以降の藩閥体制から、日露戦争後に民権思想への譲歩として、衆議院の最大政党である政友会の総裁「西園寺公望」に大命が降下した。

しかしこれは譲歩といっても微妙な譲歩だ。政友会という民党の党首が総理になったからといって、直ちに政党政治が行われると言うわけではない。政友会は衆議院の政党ではあるのだけれど、政友会党首西園寺公望自身は衆議院議員ではない。

譲歩と回収が繰り返す。

そして、桂-西園寺-桂―西園寺―桂 と続いた。

藩閥勢力と政友会はグルなのではないかという認識が広まってきた。第二次西園寺内閣の後、第三次桂内閣が成立した時に、いいかげんにしろいつまでやるんだと、都市民衆が怒りだした。

本来は民衆デモ程度は政変には至らないのだけれど、当時は日露戦争後の不況だったんだよね。長州閥―陸軍、薩摩閥―海軍、政友会―内務省、という三つ巴の予算分捕り合戦が展開されていて、桂太郎はこれを調停することができなかった。桂新党を創って衆議院を解散しようと思ったのだけれど、反桂大衆運動のせいで十分な党員を集めることができなかった。

第三次桂内閣は二ヶ月で崩壊した。

民衆運動が直接藩閥内閣を倒したわけではないのだけれど、支配者階層に亀裂が生じている場合は、民衆運動も有効に政変となりえるということが証明された。

第三次桂内閣の後は海軍大将山本権兵衛内閣となった。今までは陸軍-政友会内閣だったのが、海軍-政友会内閣に変わっただけで、桂園時代(けいえんじだい)と代わり映えしない。

海軍内閣に都市民衆はプンプン丸かと思えばさにあらず。大衆運動は急速に収束した。

結局どういうことなのかと言うと、民衆は時代に不満なのだけれども、いったい何が不満なのかよくわからないから、運動が継続しない。徳富蘇峰的に言えば、社会の水平化を民衆は望むのだけれど、いったいどうすれば日本社会が水平化するのか分からないということになる。

当時は現代と異なり、最低賃金、年金制度、失業保険、八時間労働制、などはなく、これらの権利観念の根拠思想もあいまいだった。当時の日本は極めて自由主義的な世界だった。

山本権兵衛内閣はよろしくやって海軍の軍事費を増やすのかと思われたときに、とんでもない爆弾が爆発する。

シーメンス事件である。海軍ぐるみの汚職事件だね。

この状況で海軍補充費7000万円予算が衆議院を通過。怒った民衆が国会議事堂を囲む中、この予算案が、なんと貴族院で否決。両院協議会が不調に終わり予算不成立となり山本権兵衛内閣は大正3年4月16日総辞職した。

第三次桂内閣、第一次山本内閣と立て続けに民衆運動が倒閣に力を発揮した。しかし一般国民の意識が明確に政治を左右するようになったとはいえない。支配階層に統合性が欠けている場合、民衆運動を味方にすれば敵を追い落とすのには有利だった、というレベルの話だろう。

日露戦争後の日本は、国力を傾けた戦いに勝ちながらも賠償金を取れなかったことにより、財政的に極めて厳しい状況だった。陸軍、海軍、内務省の三者すべてを満足させるような予算を組むことはできなかった。結果、足の引っ張り合いみたいなことになって、結果民衆運動が利用されるということがありえた。

明治維新以降の日本の歴史は世界水平運動の継続的発展であるという歴史観からすれば、当時の日本は奇妙な隘路に嵌まり込みつつあった。

山本権兵衛の後は第2次大隈内閣となった。大隈重信は衆議院第二党の立憲同志会の支援を受けることが期待できたし、陸軍と海軍に予算獲得の保障もして組閣した。しかしそもそも、陸軍、海軍、内務省のすべてが満足する予算を組むことは不可能だ。それができるのなら、桂園時代(けいえんじだい)が存在する必然性はないし、第3次桂内閣も第1次山本内閣も倒れなかっただろう。

そして第2次大隈内閣はどうなったのだろうか。

これがなんと神風が吹いた。

第一次世界大戦の勃発である。

世界大戦勃発の8ヵ月後、大正3年12月25日大隈重信は衆議院を解散し大勝した。この第12回衆議院議員総選挙では陸軍や海軍の予算削減は問題にならなかった。さらに大隈重信はこの選挙期間中に袁世凱に対し悪名高い対華21カ条要求を行っている。

日露戦後から第二次大隈内閣まで、明治38年から大正4年まで、この時代をどう考えるか?

シーメンス事件発覚から1年ほどしかたっていないのに大正政変のエネルギーは収束した。それほど世界大戦のインパクトは大きかったのだろう。

大正政変というのは古い時代からの解放の願望だろう。これを徳富蘇峰のように社会水平化運動の展開と言ってもいい。世界が平和であるなら、ほとんど無条件に社会水平化運動は正義であると人々は考えるだろう。しかし危機の時代になったとしたら、例えば世界大戦などというものか始まったとするなら、人々は社会水平化運動も日本という枠組みがあってこそ意味があると考えるようになるだろう。

日本という枠組みと社会水平化運動との両立。できれば互いが互いを持ち上げあうシステムが望ましいだろう。

その答えを求めて彷徨ったのが日本の昭和だと思う。

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安倍政権は後1年も続けば、安倍晋三の首相在任日数が桂太郎を抜いて一位になるという。ちょっと普通ではないですよ。桂太郎というのは日露戦争時の総理大臣であり、日露戦後は西園寺公望と組んで政権を交互に担当して、明治大正にまたがり3度も総理大臣になったという人物です。

安倍総理の政策の根拠というのがどこにあるのかというと、彼が「総力戦」という言葉を好んで使うところからして、戦前の準戦時体制にあることはたぶん間違いないと思います。

岸信介は安倍総理の母方の祖父に当たります。戦後も総理大臣をしたりして有名な人物なのですが、彼の原点は戦前の革新官僚時代にあると思いますし、安倍総理も戦前の祖父をイメージして総力戦などという言葉をつかっていると思われるので、戦前の岸信介が何をしたかについて本人がどのように語っているのかということを紹介したいと思います。

岸信介は1896年生まれです。商工省の官僚として1926年にドイツに渡って、国家統制化運動というものを研究します。
第一次世界大戦の終結が1918年です。第一次世界大戦以前の世界というのは、自由主義的思想というのが主流だったのですが、第一次世界大戦中から、自由主義などというものでは国家間の闘争を勝ち抜けないだろうということになります。自由主義でダメならどうするかというと、国内をより合理的に再編成しようという国家統制化運動ということになります。
これは直ちにファシズムというわけでもないです。例えば国を挙げてのメートル法の採用というのも、国家合理化運動の結果だったりします。

私は似てると思うんですよね、第一次世界大戦終結と冷戦終結で自由主義が勝利を収めた瞬間から国家統制化運動が始まるという皮肉なところが。

昭和5年に浜口内閣が金解禁を断行するとものすごい不況になって、これはヤバいということで、かつて国家統制化運動を研究していた岸を、もう一度ドイツに行かせて研究させろ、ということになったそうです。
当時の金解禁政策というのは、簡単に言うと通貨の切り上げみたいなものです。デフレ政策です。当時の浜口内閣などの民政党内閣は自由主義政策をとっていて、その内実はというと、より厳しい条件(例えば円高)に日本を置けば、日本経済はより強くより筋肉質になるだろうというものです。
これがまた歴史の皮肉というか、直近の民主党政権の政策に似ています。

昭和3年にソ連が第一次五か年計画という経済政策を始めます。五か年計画とか懐かしいですね。昭和8年に第二次五か年計画が始まります。
昭和7年に満州国ができるのですが、昭和11年、岸信介は満州に派遣されて満州五か年計画という経済政策を発動させます。これはソ連の丸パクリだそうです。本書で本人がそのように語っています。
この満州五か年計画では、資本と人材を当時新興財閥であった日産コンツェルンに頼ったそうです。
岸と日産というのはつながりがあるんですね。私、あまり陰謀論とかは好きではないのですが、このあたりから先日のゴーン事件というのは国策捜査ではないのかと疑っています。

岸信介は満州に3年いた後、昭和14年に商工次官として中央に復帰します。昭和14年ですから、日中戦争がはじまって2年、第二次世界大戦が欧州で始まっています。

国家総動員法はすでに制定されていて、この法律を実効あるものにするために岸は呼び寄せられたらしいですよ。
国家総力戦の中心に企画院という部署があったのですが、昭和14年から昭和16年にかけて企画院事件というものが起こります。企画院の職員がアカの容疑で逮捕されたという。この事件は、自由主義者の統制派に対する反撃で、岸信介もターゲットになっていたらしいです。
現在の自民党にも同じような闘争ってあると思います。自民党丸ごと統制派というわけでもないでしょう? 前回の衆院選で希望の党に民主党が合流したという事がありましたが、あのまま希望の党に風が吹いていたら、自民党から自由主義グループが離脱して希望の党に合流するなんて言うこともあり得たのではないでしょうか。分かんないのですけど。

この企画院事件を切り抜けて、岸信介は昭和16年10月、東条内閣の商工大臣として入閣します。同年12月8日が真珠湾攻撃です。
なぜあのような無謀な戦争を始めてしまったのか、誰もが不思議に思うところでしょう。開戦内閣の大臣であった岸信介が当時を振り返ってどのように語っているか、少し引用してみましょう。

「ハルノートがショックだったですね。それで我々文官としてはあれこれ言う立場にないし、ですから軍部を押さえつけるほどの非常に偉い人が出てくるというようなことがあれば話は別ですが、開戦に至る経過をずっと見ていくと、大勢としてはしょうがなかった。それに軍の一部が勝手にやろうということで戦争になったわけではないし。やはり石が坂道を転がっていくという情勢でしたね」

何だか漠然としたようなことを語っていますが、いつでも未来というのは見えないわけで、当事者とすればこういうものかと思います。

戦争中、岸信介自身はサイパンが落ちたら手を上げようと思っていたそうです。サイパンが落ちたら、そこからB29が飛んでくるわけで、官僚的合理性から考えると、もう総力戦は戦えないという事にはなるでしょう。
昭和19年7月に東条内閣が倒れ、岸信介は野に下ったという。

ここまで戦前部分が100ページ弱で、戦後の回想が250ページほどあるのですが、興味のある方は、戦後部分も読んでみてください。







第一次世界大戦以前のヨーロッパというのは、いろいろあっただろうけれど基本的に平和な世界だったと思う。各国の指導者層の間に、同じ文化を共有していることからくる暗黙の共通認識があったろう。  
第一次世界大戦の発端は、セルビア人によるオーストリア皇太子暗殺だ。正直、この事件自体はたいしたものではない。オーストリアはセルビアに宣戦布告をしたが、適当にセルビアをいじめておけば、そのうちどこかの国が幕引きの仲介をしてくれるだろうと考えてはいただろう。そしてオーストリア側に立ってドイツが参戦、セルビア側に立ってロシアが参戦、ロシア側に立ってフランスが参戦、ということになり大戦争の様相を呈してきた。しかしこの時点でも、多くの人は、クリスマスまでには戦争は終わるだろうと考えていた。ところが、世界戦争は4年続き、死傷者3000万人という大戦争になってしまった。   

これは結局どういうことなのかというと、多くの人は、ヨーロッパには社会秩序に対する暗黙の共通認識があると思っていたのだけれど、実際にはその共通認識はある水準以下に低下していた、ということだろう。だから戦後、ベルサイユ条約や国際連盟の創設によって、侵略の不可ということが明記されるようになった。  
すなわち、ベルサイユ条約で侵略が不可とされたから、それ以前の侵略は許されて、それ以後の侵略は許されないとか、そのようなことではない。ヨーロッパ諸国間で、いままでの暗黙の共通認識では秩序維持は怪しいので、暗黙のところを明文化しようというわけだ。  
ただヨーロッパ文明内の秩序維持の問題であって、基本的に日本とかは関係ない。日本が弱体化してヨーロッパのどこかの国に侵略されたとしても、ベルサイユ条約に基づいて国際社会が助けてくれるとか、ベルサイユ体制というのはそのようなものではない。現に日本はベルサイユ会議に、人種差別反対条約の申請をしたが、あっさり無視されている。




magamin1029

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