最高の精神科医による哲学書を理解できるレベルの言葉で語ります。メンヘラ研究付録。

 養老孟司の「バカの壁」を読んだときは、これはひどいと思ったけれども、まあ、なんでもそうなのだけれど、医者にもピンとキリがあるんだろう。


この本のハイレベルなところは、統合失調症とは何かを考える時に、下から、すなわち科学的な積み重ねという手順ではなく、上から、すなわち統合失調症における意識の存在体制を解明しようとしているところだ。

この世界にはよく分からない事というのがある。いくら科学が進歩しても分からないままという。

例えば、意識とは何なのか? 

巨大な謎でございます。しかしね、ここから派生する謎で、自分が自分であるとは何なのか、というのもある。夜寝る前と朝起きた後の自分が同一の自分であると当たり前に確信しているのは何故なのか。そして、ある種の人々が奇妙な妄想を抱くのは何故なのか。

木村敏は、このあたりの謎を崩していこうという。すばらしいチャレンジだ。

具体的にこの本の内容なのだけれど、これが非常に難解。ヘーゲル、フッサール、ハイデガー西田幾多郎、などを引用しながらの論理を展開している。例えばこんな感じ、


しかし西田幾多郎の言う「絶対の他」は、ただこのように自己の自覚の根底をなすだけではなく、自己と他者、私と汝が共にそこでそれぞれの自己を自覚する間主観的な場所でもある。
はっきりいって、何を言っているのか分からない。だいたい全編こんな感じだ。医者でもこの論理についていけるヤツは、そう多くないと思う。これを分かるように説明してみようという。 



私たちは雰囲気みたいなものの中で生きている。通常、日常生活ではこのようなことは意識しない。でもね、例えば昔の事を思い出す場合、まず当時の雰囲気を思い出し、そのあと次々に記憶が再生されるということはないだろうか。

私たちのこの現在の意識というのは、雰囲気の海に浮かぶ島みたいなものなんだよね。夜寝る前と朝起きた後の自分が同一であるとたちどころに確信できているのは、論理的推論の結果ではなく、雰囲気の継続性に対する確信に依存している。

他にも、私たちは普通他人を、心のないゾンビだとは思わない。他人を自分と同じような立体的に生きている人間だと確信している。このことは論理的推論の結果ではなく、自分が感じている雰囲気を他人も共有しているはずだという確信に依存している。

その「雰囲気」というものは、どこにあるのか。

もちろん自分の中にある。雰囲気も自分なんだよね。


私は以下、断言する。注意深くイメージして欲しい。

「雰囲気も自分であり、この意識も自分であるならば、自分が自分であるという自己同一性は、雰囲気と表層意識との関係であり、その循環だ。」

西田幾多郎の「絶対の他」という概念は、この雰囲気のことだろう。「絶対の他」という言葉を雰囲気に変えてもいいのだけれど、坂口安吾風に「ふるさと」と言い換えて、上記の意味不明だった文を以下に再掲する。


しかし西田幾多郎の言う「ふるさと」は、ただこのように自己の自覚の根底をなすだけではなく、自己と他者、私と汝が共にそこでそれぞれの自己を自覚する間主観的な場所でもある。

かなり分かりやすくなったのではないだろうか。

分裂病、境界例、などの精神疾患は、この「ふるさと」の形成不全、もしくは「ふるさと」と表層意識との関係性不全に起因するという。

画期的な論考だと思う。

自己の一体性は、無条件に与えられるものではなかった。コミュニケーション能力などというものは、自己の一体性に依存している。しかし、自己の一体性というものは筋肉を鍛えるように鍛えられるものではない。「ふるさと」を形成したり、「ふるさと」と表層意識との関係性を促進するような方法論などは近代世界には存在しない。

プラトンは「プロタゴラス」で、

「徳は教えることは出来ない」

と主張したけれども、ある意味正しかったと思う。

木村敏は、分裂病の治療についてこのように語る。


「薬物療法、精神療法、その他どのような治療をおこなったとしても、患者がより安定し充実した人生を歩み始めた場合、それは必ず、治療者との間の長期間の人間的対話によって支えられていると言ってよい。治療者が患者の中に「ふるさと」を見いだしてそれと関係を設立し、この関係そのものを彼自身の自己の場所として生きる時、この関係は逆に患者の内部にも必ず何らかの応答を生じるはずである」

これはもう治療というより、救いであり祈りだろう。

個人の力で救えるものと救えないものとはある。私もかつてメンへらの女性を好きになったことがある。これはね、ただ自分の無力さを痛感するだけだ。



     以下、無駄話。メンヘラ研究


私の上司の話なのだけれど。

明らかに何らかの精神障害だと思っていた。症状として、

責任感がない

失敗を人のせいにするのだけれど、彼の場合は尋常ではない。トラックのシートをフォークリフトで突っついて破った時、なんと、

「風が悪い」

と言ったからね。

依存癖がある

上司には絶対服従。別にそんなスパルタ会社でもないんだよ。率先して服従。極度のワーカーホリック。仕事が暇なときはイライラして、忙しい時はテンパルという。上司や仕事に人格を傾けて依存している。

自分勝手

仕事だから何をしてもいいと思っている。廃棄物の引き取りで、ある大手電機メーカーのビルによく行くのだけれど、オフィス内で大声で指示を出し、クレームをつけられたこと多数。ここ何年かは、部下である私が、

「大声出さないでよ」

と、頃合いをみての確認をしている。メンドクサイのでため口です。

彼は何らかの精神疾患を抱えていると思っていた。でもなー、分裂病予備軍でもない。あんなぐいぐい来る統合失調症患者はいないだろう。神経症でもない。責任感もないのに神経症なんてならないだろう。

木村敏の「分裂症と他者」を読んで、明確に理解した。

彼は「境界性人格障害」だ。よくいわれるところの「メンヘラ」だね。

「メンヘラ」の本質というのは、祝祭だ。

人間の精神というのは3層構造になっている。

一番上は、明確な意識世界。論理や推論をつかさどる。その世界においては、時間は1秒1秒過去から未来に淡々と流れる。

その下は、雰囲気の世界。自分にとって大事なものは大きく感じたり、つまらないものは小さく感じたり。実感みたいなものが充満している世界。その世界において時間が始まる。

最下層は祝祭の世界。生物の外の物質世界というものは、そもそも生物の生存などには何の興味ももっていない。石や水は、生物のためにあるわけではなく、ただただそこにあるだけだ。生物とは一次的には、そのような全く残酷な世界に接しながら生存している。何らかの力をどこからか与えられて、この地球上にへばり付いて生きている。その何らかの力の分与は人間にも与えられてある。人間だって生物だから。その力の世界というのは、時間もなく自他の区別もなく、ただ生きようとする意志のみがある世界だろう。

このように3つの世界が、人間の精神内にあるとして、「メンヘラ」の障害というのは、第1と第2の世界における接触不良にある。だから、第1の世界、すなわち近代世界における常識的な人格形成がちょっと甘いのだろう。第3世界の「生きようとする意志」というものが突出しがちなのだろう。

「生きようとする意志」に責任感などというものはないだろう。生きることこそが責任だろうし、そりゃあ、風が吹いて失敗したら、風が悪いに決まっている。

表面世界での人格形成が甘いから、人の存在を借りて自分のこの近代世界での自己同一性を保証したいという気持ちも分かる。

「メンヘラ」がなぜあんなに行動的なのかというのも、当たり前だよね。彼ら彼女らの人生は、生きようとする力の突出そのものなのだから。

迷惑千万だね。でも使いようによっては役に立ちそうな人材だろう。

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