magaminの雑記ブログ

カテゴリ: 雑話

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「平成」の名前の由来は、『書経(偽古文尚書)』大禹謨の「地平天成(地平かに天成る)」からで「国の内外、天地とも平和が達成される」という意味


「昭和」の由来は、四書五経の一つ書経堯典の「百姓昭明、協和萬邦」(百姓(ひゃくせい)昭明にして、萬邦(ばんぽう)を協和す)による。

「大正」の由来は『易経』彖伝・臨卦の「大亨以正、天之道也」(大いに亨(とほ)りて以て正しきは、天の道なり)から。

「明治」の由来は、『易経』の「聖人南面而聴天下、嚮明而治」より。
「聖人南面して天下を聴き、明に嚮(むか)ひて治む」

菅官房長官によると、「令和」の意味について説明。新元号の出典は「万葉集」だと明らかにした。新時代の元号は、中国ではなく日本の古典から採用されたのは確認される限り、初めて

明治、大正、昭和、平成、の出典は、易経、易経、書経、書経、と五経押しだったので、次は四書かと、論語あたりが妥当かなと思ってた。
安倍総理が山口出身だから、吉田松陰つながりで孟子もありかと。
さすがに孟子はないか。

「令和」の出典は、予想を超えて万葉集。

日本の精神的独立の決意だと受け止めたい

意識高い系のお金を集める条件というのは、意識が低い系を踏み台にするという、結局そういうところに行きついてしまう。

意識高い系の成立要件、みたいなことを言うと難しくなってしまうのだけれど、結局、意識高い系が成立しなくなってしまったのは、全体の経済が成長しなくなってしまったからというところに行きつくだろう。

全体が成長しなくなってしまうと、こじゃれた音楽を聴いてもピンとこないし、機転の利いた話を聞いてもバカバカしい感じになってしまうし、ホントどうしようもない。結局元居た場所に戻るんでしょ? みたいな意識が目覚めてしまう。

その場で楽しいこと、その場で面白いことにアクセスが集中してしまうことになるだろう。

意識高い系の論理の要点というのは、成長している分野に資源を集中する、ということになる。この社会で成長しているのは何かというと動画ということになるのだろうが、動画程度の大きさのカテゴリーだとどうだろう? 多くの人を引っ張っていくほどのエネルギーにはなりえないだろう。

この世界って、成長することが前提でつくられているみたいなところがあるから、こうなってくると矯正不能ないろんな歪みが生じてくるだろう。
仕事をしてうつになる人が大量発生したり、男の3割が結婚できなかったり。

全体の解決策というのもない。
ただ個別の解決策というのなら、かっこつけないでオープンマインドに生きて、そのマインドにふさわしい社会階層に移行するということだと思う。

例えば、外貨建ての保険商品を情報弱者の老人に売るのに引け目を感じるようなメンタルレベルの銀行員は、そんなの辞めて肉体労働者に移行するとか。

お金が少なくても幸せに生きること自体は可能だろう。




高3の娘が今日もセンター試験。

昨日と比べて今日は試験の始まる時間が遅いらしく、何だか娘はまったりしていたのでしゃべりかけてみた。しゃべりかけてみた、なんて言っても、いつも普通にしゃべっているのだけれど。

「あれー、なんか昔のママに似てきて、可愛くなってきたんじゃないの?」

「自分の遺伝子を継いでるから、可愛く見えるんじゃないの?」

「あれー? 遺伝子とか言い出した? 今日、生物の試験でもあるの? 
でも最近、俺、思うんだけど、個別の遺伝子とか特別に意味なんてないんじゃないかって。大切なのは人間全体の遺伝子であって、個別の遺伝子とか、遺伝子全体にとっては、大いして意味なんてないんじゃないかって思うんだよねって、この話もっと聞きたい?」

「聞きたくない」

「ダーウィンの進化論っさー、個別の遺伝子変化が積み重なって大進化に至るっていう話なんだけれど、これって、近代の価値観にあわせた単なる仮説なんじゃないの? 個別の遺伝子が大切だなんて、近代的趣味趣向に合わせられた単なるイデオロギーなんじやないの? だってその証拠に、150年たったって、進化論自体、全然証明出来てないじゃん」

「パパー、千円ちょうだい。電車代」

「はい、千円。気を付けて行ってきてね。
北の大地には、ある種の蝶がいて、その蝶々は毎年何千匹となくさらに北に向かって飛び立つらしいよ。飛んだところで、そこはめっちゃ寒いから、北に向かって飛んだ蝶たちはみんな死んじゃうんだって。一見無意味な行動のような気がするんだけど、もし温暖化でより北の大地が温かくなっていたら、そこで繁殖できるという意味らしいよ」

「その話は聞いたよ」

「何回でも聞きなさいよー。でもすごくない? 何千、何万の蝶が、何の生きる根拠もない北に向かって飛び立つんだよ。ミネルバのフクロウは夕暮れに飛び立つ、とか甘いよね。ある種の蝶は夜明け前に飛び立つんだから」

「行ってきまーす」

「いってらっしゃい」













韓国が嫌いな日本人がネットで目立ったりする。
しょうがないところもある。韓国はなにかというと日本に突っかかって来るし、めんどくさいという気持ちが日本人に生じることもあるだろう。

慰安婦とか徴用工とか、いったいいつの話か、70年以上も前の話じゃないの? ということにもなる。

でも私が、韓国すごいなと思うのは、韓国国民が一体となって日本に突っかかって来ること。だって、日本に来る韓流アイドルすら反日のTシャツを着てくるんだよ? ゆるゆるの社会に生きる若者が、よその国に自分を売り込みに行こうとするときに、その国のアンチTシャツなんて着ていかないでしょ?

たぶん韓国には、社会の中に、まあなんというか一体性を練り上げるような雰囲気みたいなものがあって、その雰囲気が反日という軸に集まっているのだと思う。だから、反日を表現しない者は反社会的なレッテルを張られるのだろうと思う。

韓国は反日思想を国民結集のために利用している、とよく言われるけれども、これは原因と結果が逆ではないだろうか。
韓国国民に結集しようとする意志があるからこそ、反日思想に結集するのではないだろうか。

これって、悪いことというより良いことなんじゃないかと思う。日本としては迷惑なんだけれど。

現代日本の困難というのは、集まって頑張れないということにある。
ネット右翼は貧困層の若者に多いと思われていたのだけれど、実は中産階級上流の中小企業の経営者に多いという。
これはなぜかというと、中小企業の経営者というのは、思想的に社員を結集させて働かせたいというモチベーションがある。昔は、会社は家族だ、とかいう考え方もあったりした。でも今では受け入れられないだろう。

しょぼい会社で真面目に働く程度では、男は結婚もおぼつかないんだよ。

結婚もできないのに会社が家族だとか、本当にどういうつもりなのかということになる。
中小企業の経営者が今まで社員を結集させていた思想は失われて、新しく彼らが頼ろうとしたのが「ネット右翼思想」ということになるだろう。
ま、こんなのは認められないだろうけれど。

ほかにも、ネットにおける左翼リベラルの主張というのは、もうほとんどヒステリーだ。
なぜ多くの国民が、反原発、反辺野古基地移転、憲法堅持、民主主義、という価値観に結集しないのか? 正しい価値観に結集するのは当然のことなのに、その当然のことが行われないのは何故なのか?

自分の主張がスルーされてヒステリーを起こす、小学校の音楽の先生みたいなことになっている。

人と人とが結集する力というのが、この日本で薄れてきているから、このような悲劇(喜劇?)が起こるのだろうと思う。

その点、韓国はすばらしい。反日という奇怪な価値観の元とはいえ、国民に互いに結集する力があるわけだから。

でも個人的にはゆるい日本で暮らす方が好みではあるけれど。




桃鳩図(ももはとず)      国宝
桃鳩図


皇帝徽宗の筆になると伝えられる中国絵画で、院体画の傑作の一つ。日本国宝。

中国宋代の皇帝が描いた絵画が、日本の国宝になっているのは不思議というかしっくりくるというか。

歴史を感じますね。



私が働いている会社に中島さんという74歳のおじいさんがいます。中島さんは子供のころ、
「ギブミーチョコレート」
と言って、進駐軍の兵士からチョコレートを貰ったこともあるという、そんな話もしていました。

中島さんはまだまだ元気に働けるし、頭も全くぼけていません。


私の中二の娘がこう言うのです。
「お父さん、伊能忠敬ってすごいんだよ」

「何がすごいの?」

「だって、日本中歩いて回ったんだって」

「そんなことだったら中島さんのほうがすごいよ。この前中島さん、家に遊びにきたろ? あれ、片道一時間かけて自転車で来てるんだよ。74歳だぜ」

「うん、中島さんのほうがすごいね」

さらに娘
「お父さん、大隈重信ってすごいんだよ」

「何がすごいの?」

「だって、記憶力がすごくよかったんだって」

「そんなことだったら中島さんのほうがすごいよ。この前中島さん、クリームパン食べておなかが痛くなったって話をしてたの。よく聞いたら、小学校三年生のことなんだって。昭和28年に食べたクリームパンの話をしてるんだよ」

「うん、中島さんのほうがすごいね」

中島さんには、もっともっと現役でいて欲しいです。




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現在高3の娘が5歳の時に、私の書いた日記みたいなものを見つけました。
懐かしくなってここにごく一部を公開します。



なっちゃんが、寝る前に本読んで、というので、その「ダンゴ虫とフナ虫」、読みました。
内容は
ダンゴ虫くんが生物学上お友達であるフナ虫に会いに海に行くのです。海に着いたダンゴ虫くん、
「フナ虫くん、いないなー」
と思ったとき、岩陰からフナ虫がわらわらと大量に現れて、ダンゴ虫くん大喜び。

ウゲげー(絵本なのでフナ虫が出現するさまが明確に描写されていました)

「あのねー、なっちゃんねー、ダンゴむし、だいすき」
「なんでダンゴ虫好きなの?」
「だって、だんごむし、もぞもぞするもん」
「もぞもぞ?」
「だんごむし、いっぱいつかまえると、てが、もぞもぞするよ」

ウゲげげー



だんごむし




娘は、いまでは虫が大嫌いになっています。







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結婚式に呼ぶ友達がいないとか、ぜんぜん問題ない。

もう10年以上前だ。私には2つ年下の妹がいて、今度結婚したから親戚同士の顔合わせをしたいと言ってきた。私と妹は仲はいいほうだと思う。妹は早稲田を卒業してそこそこの企業に就職して、そこの年上の部下と付き合っていた。私としては、あの健ちゃんと結婚するんだね、おめでとう、みたいな感じだ。私の妹は性格がきつく金に辛い。私は結婚式等というくだらないものに私の貯金を1円も使いたくないと宣言していた。というわけで今回、新郎側の親が全額出すことによって、新郎新婦の親戚同士が食事会をするということなったと、妹が実際私にこのように説明した。 

                                                      
私たち兄弟は岡山県生まれなのだけれども、大学から東京にでてしまった。うちの両親というのは妹が就職したぐらいに2人とも死んじゃって、結局2人して田舎から切れてしまったんだよね。妹が親戚同士の食事会で呼べる人間は私しかいない。 
                                                  
妹に呼ばれて、私は待ち合わせの埼玉県の川口市のホテルに行った。これが思ったよりいいホテルで、食事会にしては不思議な感じがしたのだけれど、向こうのご両親もちょっと頑張った、1人あたり2万ぐらいのコースかななどと思ってホテルを入ってズンズンいくと、妹がウエディングドレスを着ているんだよね。
           
「キミ、なにそんなものを着ているの?」

いや、親戚同志の食事会ではないのかと、ウエディングドレスでは食事会と違うよね。
             
「まあまあお兄ちゃん、お兄ちゃんの席はあるからちょっと座ってて」
                       
こんな感じで手なずけられた。結局、向こうの親戚は25人ぐらいはいたと思う。食事会というよりは、簡単な結婚式風な感じで状況は展開していった。でそのうち司会者の人が、新婦側からのスピーチをお兄さまから、なんていうことを言い出した。
いやこれはやばいよ、食事会だと思っておなかをすかせてのこのこやってきたら、ぶっつけ本番、妹の結婚式のスピーチだというのだから。
                                               まず思ったのはずうずうしくやらなくてはいけないということ。そもそも妹だって、新郎の親戚25人の中に私一人をずうずうしくも呼んで澄ました顔で目の前に座っているのだから、この上をかぶせていく必要がある。兄なのだから妹の結婚式のスピーチは当たり前みたに堂々と立ち上がり、全く当たり前のようにマイクの前に立つ。もちろんスピーチのためのカンニングペーパーなどは出さない、そもそもないから。

さてここからどうするか。

妹の両親はすでに死んでいるというということをまずアピールした。本当はこの場所で父や母が話すべきだったと思いますが、両親共に亡くなっているので私が挨拶させていただきます、みたいな感じ。これは効いた。ちょっと場がシーンとなった。ここちょっと押せるんじゃないの、という感触をつかんだ。父親は妹のウエディングドレスを見たいといっていたとか、母親は健治さんなら妹を嫁がせても心配ないといっていたとか、死人にくちなしみたいなことを喋った記憶がある。
妹は帰り際に、 
                                                      
「今日はありがとう」

とニヤニヤしながらいっていた。そのずうずうしさ。妹よ、キミはだんだん死んだ母親に似てきたよ。


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やられたらやり返す、というのはこの世界の基本だと思う。

高尚な言葉で言えば、強い意志をもつということになるだろう。一つの意見として、やられたらやり返す、なんていうことをやっていては、例えば会社なんかで出世できないんじゃないの? なんていうのもあるだろう。
しかしこのような論理は手段と目的を完全にひっくり返してしまっている。  

強い意志を持って世界に挑んだ時に、世界にはじき返されたとして、それは強い意志を持つべきではなかったからだと考えるべきなのだろうか。そうではないだろう。自分には強い意志とは別の、いうなれば二次的な能力が足りなかったと考えるべきだろう。   

わかりやすい例をだそう。  

私の職場の隣に、知的障害者の作業場がある。作業が出来るぐらいだから、知的障害といっても見た感じ軽度だ。私は彼らと知り合うまで、軽度の知的障害というのは、ただ知能が一般人より若干低いだけなのかと思っていた。しかし実際付き合ってみると、ちょっと違う。

軽度の知的障害にも大まかに2種類ある。
頭のねじが緩んでいるのと、意思が薄弱なのと。

頭のねじが緩んでいるのはどうしようもない。頭のねじを締めるドライバーというのは存在しないだろうから。しかし、意思が薄弱なのは、訓練によって何とかなるのではないかといつも思う。
世界は強い、自分は弱い、という二つの観念が究極に固定されたものが、軽度の知的障害と判断される根底になることもかなりの確率であると思う。

これは騙されている。

自分の力が弱いというのは相対的なものだし、世界が強いというのは事実ではない。世界はあんがい脆い。  

私が何を言いたいのかというと、ある種の知的障害者というのは、意思が薄弱だからという理由で、知的障害のレッテルを貼られ、くそくだらない作業場でくそくだらない作業をしていて、そのことは、社会でよろしくやるために「やられたらやり返す」という強い意志を喪失した健常者なるものといったい何が違うのかということだ。   

勉強が出来るとか、空気が読めるとか、このような能力というのは、結局二次的な能力に過ぎない。大事なのは強い意志であり、この程度のものは訓練によって獲得できるのではないかと思うんだよね。


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magamin1029










私は現在47歳なのだけれど、父親は私が27歳の時に53歳で死んだ。20年前ということになる。死因は肝硬変だった。酒の飲みすぎだろう。

朝から飲んでいた。 
仕事は青物市場経営。小さい会社だったけれど、社長なわけで、酒気帯びでも誰も文句を言う人はいなかったのだろう。 
酒が好きだというわけではなかったと思う。気が弱い人だった。、酒を飲まなければやっていかれなかった、というのが真実だろう。  

父親の事はあまり好きではなかった。私が子供のころの夕食時、父親はテレビで野球を見ながら、酒を飲みながら、白菜の出来はどうとか、みかんの出来はどうとか、なんていう話をしていた。 
私はそんな会話がいやだった。野球とか、白菜とか、みかんとか、そんな話どうでもよくないか? って思った。私は子供のころから勉強が出来て、中学、高校はちょっと遠くの中高一貫の進学校に行った。本が好きで、中学生の時から、カフカとかドストエフスキーを読んでいた。ますます父親との距離が遠くなった。彼は白菜の話がメインなんだから、正直、共通の話題とかはない。 
私が大学の時も、父親との関係は同じようなものだった。私がヘーゲルやニーチェを読んで、人生の難問に挑んでいるつもりになっている時に、彼は相変わらず白菜の話だから。   

怒りすらわいたね。   

普通、父親ってサー、子供に人生の有益なアドバイスを要所要所に与えるものなのではないだろかって、それがいつまでたっても自分の野菜王国が気になってしょうがないような感じだった。 結局最後まで、父親とまともに話したことはなかった。父親と息子って、息子が成人した後には、一緒に酒を飲んで、なんだか腹を割って話すみたいな美しい物語があったりしがちなのだけれど、私と父親との間には、そのようなことは全くなかった。 父親が死んだ時、父親の会社の貸借対照表というのを見せてもらった。まあ、ひどい内容でね、あれだけ頑張ってこの程度かと、ガッカリするより納得するような感じだったと記憶している。  
父親が死んで3年ぐらいたって母親も死んだんだよね。実家の風呂場で死んでいた。警察によると、死因は脳溢血だっという。死因は脳溢血と心筋梗塞が疑われたのだけれど、検視の結果、脳溢血と判定された。なんだか、脊髄液の濁り具合で分かるらしい。  
思ったのは、あの二人は愛し合っていたんだな、ということ。私の父親は、背がすらりと高くてイケメンだった。母親はそんな父親を好きになったのだと思う。二人は恋愛結婚だった。いくらイケメンでも、頭の中身が野菜王国では意味がないだろうと、私は思うのだけれど、母親は違った。頭のいい女性だったけれども、父親の事が好きだったのだろう。3年で後を追いかけていったから。長い年月の間に、夫婦が互いに互いの胸を掘り崩すというのはあるという。  

あと6年で、私も父親が死んだ歳になる。  
べつに感慨とかもない。私も結婚して子供もいる。私が子供に気をつけていることは、野菜の話はしないということ。彼らは野菜に興味がないだろうし。その代わりドストエフスキーの話をして嫌われているという。  
妻は私が死んでも、すぐに追いかけてきたりはしないだろう。女性の平均寿命まではしっかり生きる勢いだ。  
結局、私は、父親を越えたということもないし、超えていないということもないのだろう。


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