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村上春樹と大江健三郎の文学の傾向は似ている、ということがよく言われます。

簡単なところで言うと、村上春樹の作品にも大江健三郎の作品にも四国がよく出てきます。
大江健三郎は伊予の喜多郡生まれなので、四国が作品の舞台になることが多くなることも理解できます。しかし村上春樹は京都生まれの西宮育ちで、大学は早稲田で東京暮らしで、四国とはあまり接点がないような。


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【村上春樹の中での四国】


村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」で主人公の失踪した妻から来た手紙の消印が高松でした。
「ねじまき鳥クロニクル」では、ある特定の井戸が重要な役割を担うのですが、その井戸の所有者家族が四国で一家心中しています。
「海辺のカフカ」では、主人公の少年が家出した結果居ついた場所が
高松でした。少年は高知の山奥に家を借り、そこで幻想的な体験をします。
「騎士団長殺し」に登場する免色さんは、その珍しい苗字のルーツは四国であるらしい、と語られたりしています。

村上春樹は、作品中で無理矢理に四国を出している感じです。これは村上春樹の大江健三郎に対するオマージュではないかとも考えることも可能です。


【村上春樹と大江健三郎の文学】


村上春樹と大江健三郎の文学の具体的な内容の似ていることについて、これは大江健三郎の初期の作品については当てはまるとおもいます。

大江健三郎の最初期の短編である「奇妙な仕事」から、その主人公と登場人物の女子学生との会話での主人公パートを抜粋してみます。  

『たいへんだな、と目をそむけて僕はいった』

『火山を見に? と僕は気のない返事をした』

『君はあまり笑わないね、と僕はいった』

どうでしょうか?
私は、村上春樹に出てくる「悪い奴じゃないのだけれどちょっと不愛想」な主人公たちと似ているところがあるのではないかと思います。

これもまた大江健三郎の最初期の短編である「死者の奢り」(ししゃのおごり)は、主人公「僕」が、大学の医学部でアルコール水槽に保存されている解剖用の死体を処理のアルバイトを、辛気臭い女子学生といっしょにするという話なのですが、小説内での語り手が一人称の「僕」ですから、村上春樹の小説の感覚と似ています。

昭和30年ごろの大江健三郎の文学における問題意識というのは、寄り掛かる価値観を失った若者を描写することだったと思います。
昭和20年後半は戦前と戦後の価値観の変わり目で、戦中に受けていた教育規範が胡散霧消し多くの人が心の軸を失ってしまい、人生経験の少ない若者の自殺率が異常に高くなっていた時代でした。

戦後の確固とした価値観を失った時代に生きた若者の多くは、価値というのは相対的なものであるという場に至って、結果として生きる力を失ってしまったということなのでしょう。同じようなタイプの青年を描いているという意味で、初期の大江健三郎の作品と村上春樹の作品とは似ているところがあると思います。

しかし大江健三郎は、価値が相対的だという場に落ち込んでしまった青年を描くという態度から、生きる力を失った人はどのようにしたら救われるのかという文学的態度に一歩踏み出しました。遍歴の末、イーヨーというヒーローを得て大江文学は一つの到達点を示現したと思います。

これに対して村上春樹の文学は、大江健三郎と違って、新しい世界に一歩を踏み出すということがなかったと言えます。いつまでも「ノルウェイの森」の劣化版を書いています。というか、書けば書くほど劣化していっています。

これは一歩踏み出した世界から見れば、村上春樹の文学は劣化しているように見えるということになります。
価値が相対的だという世界にとどまり続ければ、村上春樹の世界は時とともに深化しているように見えるでしょう。

世界に実体としての価値観があるか、それとも価値観というのはすべからく相対的なものであるかは、それぞれの人の判断によるものであるでしょうから、どっちの世界観が正しいとかいうものもないとは思います。

ただ、大江健三郎と村上春樹の文学というのは、はじめは同じような地点から出発したのですが、あとで方向性が全く異なってしまったということになるでしょう。


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大江健三郎は自らの短編を、その古い順番で読んでいくと、戦後日本の精神史になっていると言っているので、おすすめ短編を古い順番に紹介していきます。

目次
1 奇妙な仕事 1957年5月
2 セブンティーン 1961年
3 空の怪物アグイー 1972年
4 レイン.ツリーを聴く女たち 1982年
5 連作 静かな生活 1990年
6 新しい人よ眼ざめよ 1983年
7 河馬に噛まれる 1985年
8 火をめぐらす鳥 1992年




1




「奇妙な仕事」


話自体は大学病院の不要になった実験動物の犬を150匹殺す話で、登場人物は4人。  
犬の殺し方にこだわりを持つ、30歳ぐらいの犬殺しのプロ。後3人はお手伝いのバイト。犬殺しに根本的な疑問を持つ院生の男と、クールで芯の強い若い男と女。  

構造が村上春樹の「ノルウェーの森」そのままだと思った。どういう構造かというと、まじめで弱い人間を踏み台にしながら、こだわりを持つ男に支えられて、クールな男と女はいい感じで盛り上がるということ。  

話の構造も似ているのだけれど、「奇妙な仕事」の主人公の男の話しぶりが、「ノルウェーの森」の主人公とかぶるような。 「奇妙な仕事」の主人公と女子学生との会話での主人公パートを抜粋してみる。  

「たいへんだな、と目をそむけて僕はいった」 
「火山を見に? と僕は気のない返事をした」 
「君はあまり笑わないね、と僕はいった」  

同じ構造、同じテンションで、同じようなことを言われると、そこには否定しがたい同一性が認められると思う。大江健三郎と村上春樹の同一性、これはもちろん村上春樹がオマージュしたのだろうと思うのだけれど、そのあたりのことを調べたらちょっと面白いかも、とは思う。


「セブンティーン」


17歳の弱い青年が、右翼に入って強くなるという話
「セブンティーン」の主人公の青年は、自己同一性が怪しい。  

「この世界の何もかもが疑わしく、充分には理解できず、 なにひとつ自分の手につかめるという気がしない」

と感じている。   
17歳の少年はどうすればいいのだろうか? クールで無関心な青年になるのはお断りだ。   
17歳の少年の父親というのは学校教師で、頼りにならないインテリとして描かれている。家族はあてにならない。国家としての日本は、太平洋戦争でのあの大敗北だ。  
どうするか、17歳の少年はどうやって救われるのか?   

この少年が皇国思想によって救われたからといって、いったい誰が批判できるだろうか。   
この少年が、社会党の浅沼委員長暗殺事件の犯人のモデルだとして、それは「セブンティーン」が直ちに右翼批判小説であるということにはならない。


「空の怪物アグイー」


主人公の知り合いの男が狂人なんだよね。ショックな事件があって、それ以来彼には、カンガルーのような巨大な赤ん坊のような何者かが、自らの傍らに突然舞い降りるようになったという。彼はその何者かをアグイーと名づけた。  
主人公もその影響を受けて、突然舞い降りる何者かが見えるようになったという。   

狂気の話なんだよね。  

居場所を失った若き魂はどうすれば救われるのか、というのが、大江健三郎のテーマだったと思う。そのような意味で、「セブンティーン」では、皇国思想を取り上げた。「空の怪物アグイー」では、狂気によって救われる若者を描いたのだろう。   

しかし、狂気によって救われるということは、近代社会においては難しい。  
近代においての狂人の地位というのは、過去と比べてえらく低い。明治の中ごろまでは、狂人は村の中をふらふらすることが認められていて、村人から愛される馬鹿みたいな扱いだった。

現代ではどうだろうか? 狂人は、精神病院に収容されるか、個人の家に隔離されるか、あれではほとんど人間扱いとはいえないだろう。  

狂気によって救われるということは、近代においては狭き門になった。  

狂気によって救われることは難しい。空の怪物をアグイーと名づけた青年も救われなかった。   
純真な青年が救われるためにはどうすればいいのかっていうことになる。


「レイン.ツリーを聴く女たち」


レインツリーとは、ハワイの精神病院の庭に立つ巨大な木の名称
主人公の大学時代の同級生に高安カッチャンという人物がいて、これがいきがって大学を辞めてアメリカにわたって全く成功しなかったという、救われないオヤジなんだよね。この救われないオヤジ高安カッチャンが、いかにして救われるかというのが、この小説のテーマだ。

高安カッチャンは自分が救われるために奇妙な論理を実践する。大学の同級生で成功したやつと女性を共有すれば自分も救われるみたいな。なくはない論理だと思うけれど、いきなりそんなこと言われても、というのはある。

若い人も救われにくかったけれども、オヤジの場合は絶望的に救われない感じたね。救われないオヤジのそばにそびえるレイン.ツリーというわけ。


「新しい人よ眼ざめよ」



学校の合宿に出かけるとき、知的障害のある大江光さんは、父大江健三郎にこのように言う。  

「しかし僕がいない間、パパは大丈夫でしょうか? パパはこのピンチをよく切りぬけるでしょうか?」  

救うものと救われるものとの逆転。  
知的障害の息子が、戦後日本を代表する作家の父親の魂を救うという。けっして奇跡ではなく、大江健三郎が誠実に子供の声に耳を傾けた結果ではある。   
「新しい人よ眼ざめよ」のなかでは、大江光さんとの会話以外にも、いろんなことが並立的に書いてある。ブレイクの詩がどうだとか、二十歳のころ付き合っていた女性と20何年か後に再開しただとか、キリストの救いだとか、最後の審判についてだとか。  

まあそのような逸話は、たいした意味はないだろう。いうなれば、大江光さんの言葉の引き立て役ということだ。


「河馬に噛まれる」


日本赤軍のリンチ殺人事件での高校生メンバーで便所掃除係りだった少年が、十何年後かに大江健三郎とちょっと文通をして、その後アフリカで暮らしているっていう話だった。

かつて少年だったコイツが、アフリカでカバに噛まれるんだよね。そして現地で「河馬の勇士」という称号をちょうだいしたらしい。だからといって、別に何か冒険が始まるというわけでもなく、彼はアフリカで車の整備なんかをしながら生計を立てるようになる。ぱっとしない人生といえばその通り。唯一つの勲章は、カバに噛まれたということだけ。

大江健三郎の知り合いの女の子が、「河馬の勇士」に会いに行って、大江健三郎の悪口を言う。それに対して「河馬の勇士」はこのように答える。

「大江は大江で自分のカバにかまれているのじゃないか?」

大江健三郎にとってのカバとは何か、というのははっきりとは書かれていないのだけれど、イーヨーのことだと思う。たいした人生ではないけれど、自分の勲章はイーヨーに噛まれたことだというわけだろう。


「連作 静かな生活」


構造的には、「連作 新しい人よ眼ざめよ」と同じ。語り手が、大江健三郎から、大江健三郎の娘に代わっているだけ。知的障害者である長男イーヨーに家族が救われるというパターンに変わりはない。

大江健三郎とイーヨーとは、ちょっとかみ合わないところがあって、その辺のところを長女や次男にフォローしてもらっていた場面がいままで何度かあった。  
今度は長女が語り手で、父親のデリカシーのないところをチクリとやるところなんて、うまいよなーって思った。

長女と次男、長女とイーヨーの音楽の先生との間で、ロシアの「案内者」という映画について、結構長々と喋っていたりする。しかし、このような芸術論はたいして意味はない。そもそも、イーヨーの音楽の先生は、この映画を観ていないのだから。 キリストがどうとか、アンチクリストがどうとか、凡人がぐだぐだ言っているレベルだろう。

いいところは、最後にイーヨーが全部持っていくというやつだね。
それで何の問題もないよ。

私は、大江健三郎を実際に読む前は、彼をとぼけた左翼作家だと思っていた。しかしこのおとぼけけ振りというのは、イーヨーを持ち上げるための演技の可能性が高い。イーヨーを持ち上げることで、他の知的障害者もまとめて持ち上げようということだろう。

はっきり言って、現代社会の知的障害者にたいする扱いはひどい。多くの人が、こんな人間なら生まれてこなかったほうが幸せだったろう、と心の中では思っているだろう。そんな弱い心を、あえてひっくり返そうとするのだから、すごいよ。

大江健三郎を気に入らない人がいるとして、彼が大江健三郎を批判すれば批判するだけ、大江健三郎はぐだぐたになって、そのぶんイーヨーが持ち上がるという、そういうシステムになっている。


「火をめぐらす鳥」


大江健三郎は、知的障害者の子供が生まれて、この子供を救おうと決心したのだろう。しかし、人を救うとは何か? 人を救うなんていうことはできるのか? 自分でさえ救われていないのに?  

子供とかかわるうちに、いつしか論理は逆転する。

養護学校の泊りがけの合宿に行こうとする息子を心配して、父親は語りかける。

「イーヨー、大丈夫か、一人で行けるか?」

子供は答える。

「お父さんは大丈夫でしょうか? 私がいなくても大丈夫でしょうか?」

救うものが救われて、救われるものが救う、そういうことってありえると思う。

「火をめぐらす鳥」のなかで、「私」は障害者の息子と、死後のそれぞれの魂が、より大きい魂の集合体みたいなものに共に合流することを夢見る。しかし本当のところは、「私」は独力で魂の集合体に合流することは無理だろう、そして息子にそこまで一緒にだよ、自分を導いて欲しいと思っているのだろう。

「火をめぐらす鳥」の最後で、「私」と息子は駅のホームで一緒に倒れて、二人して起き上がれなくなってしまう。「私」は息子に話しかける。

「イーヨー、イーヨー、困ったよ。一体なんだろうねえ?」

息子は答える。

「ウグイス、ですよ」

論理は完全に逆転しただろう。救うものが救われて、救われるものが救う。



大江健三郎の8短編を発表順に紹介してみました。


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大江健三郎のデビュー作、「奇妙な仕事」

読んで驚いた。これは村上春樹だよ。話自体は大学病院の不要になった実験動物の犬を150匹殺す話で、登場人物は4人。
犬の殺し方にこだわりを持つ、30歳ぐらいの犬殺しのプロ。後3人はお手伝いのバイト。犬殺しに根本的な疑問を持つ院生の男と、クールで芯の強い若い男と女。

構造が村上春樹の「ノルウェーの森」そのままだと思った。どういう構造かというと、まじめで弱い人間を踏み台にしながら、こだわりを持つ男に支えられて、クールな男と女はいい感じで盛り上がるということ。話の構造も似ているのだけれど、「奇妙な仕事」の主人公の男の話しぶりが、「ノルウェーの森」の主人公とかぶるような。「奇妙な仕事」の主人公と女子学生との会話での主人公パートを抜粋してみる。  

「たいへんだな、と目をそむけて僕はいった」
「火山を見に? と僕は気のない返事をした」
「君はあまり笑わないね、と僕はいった」

同じ構造、同じテンションで、同じようなことを言われると、そこには否定しがたい同一性が認められると思う。
次作、「死者の奢り」も似たような感じだ。「死者の奢り」のなかで主人公はこのように言う。
「僕は希望を持っていない」 
この主人公は、あらゆる価値観を対等だと考えている。何かに熱中するとかはない。価値観の序列がないから。
このあたりまでは村上春樹と同じなのだけれど、大江健三郎は早々と新たな一歩を踏み出した。

「飼育」以降、大江健三郎は、なぜ戦後の若者は、全ての価値観が対等だなどという奇怪な世界に落ち込んでしまったのか、ということを問い始めた。 結果として、これはすばらしいチャレンジだった。
人はどうすれば救われるのか、というのが、「セブンティーン」以降の問題意識となった。
「セブンティーン」では、主人公の青年は皇国思想によって自らを救おうとした。
「空の怪物アグイー」では、主人公は狂気によって自らを救おうとした。
「レイン.ツリーを聴く女たち」は、救われないというか、救いようのないオヤジの話だった。
大江健三郎には光くんという知的障害の長男がいる。
「無垢の歌、経験の歌」では、この光くんがどのようにしたら救われるのかという話だった。

そしてついに論理は逆転する。

大江健三郎は、デビュー作から、「この世界で人はいかに救われるか」 ということを書いてきたと思う。そして、子供に知的障害児が生まれて、小説のテーマが「この子は、この世界でいかに救われるか」というところに収斂する。 これは難しい問題で、正直、口に出してはいわないけれど、障害者やボケ老人なんてこの世界にいない方がいい、なんて思っている人はかなり多いと思う。しかし「新しい人よ眼ざめよ」で、ついに論理は逆転する。

大江光さんには、この世界で生きようとする意志がある。タクシーの運転手に、ぼっちゃんはたいしたもんだなー、がんばってくださいね、と話しかけられたとき、大江光るさんは、
「ありがとうございました。がんばらせていただきます!」
 と答えた。
学校の合宿に出かけるとき、大江光さんは、父大江健三郎にこのように言う。 
「しかし僕がいない間、パパは大丈夫でしょうか? パパはこのピンチをよく切りぬけるでしょうか?」

救うものが救われて、救われるものが救う。

「火をめぐらす鳥」のなかで、「私」は障害者の息子と、死後のそれぞれの魂が、より大きい魂の集合体みたいなものに共に合流することを夢見る。しかし本当のところは、「私」は独力で魂の集合体に合流することは無理だろう、そして息子にそこまで一緒にだよ、自分を導いて欲しいと思っている。論理は完全に逆転しただろう。 救うものが救われて、救われるものが救う。

渾身の文学だと思う。

「大江健三郎自選短編」のあとがきに、大江健三郎は自らの短編を、その古い順番で読んでいくと、戦後日本の精神史になっていると書いてある。   
大江さん、またまたご冗談を。  
大江健三郎の小説世界は、精神史とは対極にあるだろう。精神史とは、イデオロギーの遍歴に伴う時代の雰囲気の変化の記述方法であって、大江健三郎の小説世界の本質とは何の関係もない。では、大江健三郎とは何者か。大江健三郎の小説世界の本質は、救うものと救われるものとの「いれかわり」だと思う。

これは日本の古い記憶だよ。

和辻哲郎は、
「日本神話においては、祭られる神は同時に祭る神だという性格をどこまでさかのぼっても備えており、祭祀の究極の対象は漂々とした時空の彼方に見失われる」
と書いている。ここにおいては、祭られる神は同時に祭る神であるという構造が重要なのであって、いかに祭られるかということは重要ではない。祭る方法というのは、その時代の様々なイデオロギーを採用して問題なし、という態度だ。

大江健三郎の小説世界は、この日本神話の方法論をそのまま採用しているだろう。彼の小説の中では、西洋の洒落た作家、詩人などが引用される。ダンテ、ブレイク、マルカム・ラウリー。しかしこのような言説は、体系となって大江作品の根幹を支えているというわけではなく、日本神話特有の空洞を埋めるための素材の単なる集合に過ぎない。飾りみたいなものだ。当たり前の話であって、大江健三郎の小説世界の本質が、「自分」とイーヨーとの関係性にあるとするなら、ダンテやブレイクの言葉がイーヨーに届くはずはない。イーヨーは難しい論理を必要としていないのだから。  

「火をめぐらす鳥」という短編の中で、大江健三郎が、幼いイーヨーを肩車して林の中を散歩する場面がある。イーヨーは知的障害者で、いまだ言葉を発しない。鳥が鳴いていて、大江健三郎は「何の鳥が鳴いているんだろうね」とひとりごちた。すると天空から、「それは、クイナです」という声が聞こえた。イーヨーが始めて喋ったという。 
これって、日本書紀にも同じような話があったと記憶する。私が日本書紀を読んだのもかなり前だから、どこにこの話があったのか指摘することも出来ないのだけれど。
大江健三郎は、ブレイクについては語るけれど、日本書紀については語らない。  

明らかだと思う。
  
大江健三郎の小説世界の本質は、古い日本の記憶の側にあるだろう。
大江健三郎の出身地というのは、伊予の喜多郡の北東部。もう土佐に近いところだ。宮本常一の「土佐源氏」を読んでみてほしい。西日本を高みから見下ろす秘境みたいな場所だ。 大江健三郎という作家は、戦後日本の都市中産階級を代弁する者ではないと思う。





大江健三郎『M/Tと森のフシギの物語』 1986年発表。 

大江健三郎の出身地である伊予の喜多郡の神話、歴史、を口伝の物語として自身にひきつけ、それを大江健三郎のヒーロー、「いーよー」につなげて行くという内容。

ノーベル賞対象作品というのも、問題ないレベルだと思う。

伊予の喜多郡の山奥の村の、口伝としての昔話に出てくる亀井銘助というのは、深谷 克己の「南部百姓命助の生涯」で描かれている命助を、そのままスライドさせている。
南部百姓命助自体は、明治維新の先駆けみたいな存在だった。

大江健三郎が「命助」をこの物語に採用したということは、何らかの国家主義的な意味を、この物語に練りこもうとしているのだと思う。

大江健三郎という人は、左派の知識人というイメージがあるだろうけれど、私はそうは思わない。強烈に日本の田舎くさいところがある。

彼の小説は、主人公が都会人の仮面をかぶっているというのも多いのだけれど、最晩年にいたって、大江健三郎は土着の日本に回帰してきたのだろうと思う。

喜多郡の農民が大日本帝国に戦いを挑んだからといって、大江健三郎が無政府主義者というわけではない。主人公が暮らす村があって、そこの村人達は独自の神話をもって、一体感の中で暮らしている。 大日本帝国と主人公の暮らす村との対立というのは、大きい一体性と小さい一体性との対立であって、全体と個との対立というものではない。小さい村の一体性というものがあるのなら、それは幸せなことだろうと思う。

私も西日本の小さい街の生まれだけれども、私の子供時代においてすでに、地域で神話を共有するなんていうことはなかった。こんなクソつまらない田舎から早くそとに出たいとばかり思っていた。

たぶん日本のどこでも似たような雰囲気だったと思う。小さい一体性というのは多くの場所で失われた。小さい村の一体性というものがあるのなら、それは幸せなことだろうと、私は思う。
小さい一体性が回復できるのなら、それは悪いことではないし、日本という大きい一体性を特別ないがしろにしてもいいというものでもないだろう。

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「大江健三郎自選短編」のあとがきに、大江健三郎は自らの短編を、その古い順番で読んでいくと、戦後日本の精神史になっていると書いてある。   

大江さん、またまたご冗談を。  

大江健三郎の小説世界は、精神史とは対極にあるだろう。精神史とは、イデオロギーの遍歴に伴う時代の雰囲気の変化の記述方法であって、大江健三郎の小説世界の本質とは何の関係もない。  

では、大江健三郎とは何者か。 

大江健三郎の小説世界の本質は、救うものと救われるものとの「いれかわり」だと思う。これは日本の古い記憶だよ。

和辻哲郎は、「日本神話においては、祭られる神は同時に祭る神だという性格をどこまでさかのぼっても備えており、祭祀の究極の対象は漂々とした時空の彼方に見失われる」と書いている。ここにおいては、祭られる神は同時に祭る神であるという構造が重要なのであって、いかに祭られるかということは重要ではない。祭る方法というのは、その時代の様々なイデオロギーを採用して問題なし、という態度だ。  

大江健三郎の小説世界は、この日本神話の方法論をそのまま採用しているだろう。彼の小説の中では、西洋の洒落た作家、詩人などが引用される。ダンテ、ブレイク、マルカム・ラウリー。しかしこのような言説は、体系となって大江作品の根幹を支えているというわけではなく、日本神話特有の空洞を埋めるための素材の単なる集合に過ぎない。飾りみたいなものだ。  

当たり前の話であって、大江健三郎の小説世界の本質が、「自分」とイーヨーとの関係性にあるとするなら、ダンテやブレイクの言葉がイーヨーに届くはずはない。イーヨーは難しい論理を必要としていないのだから。  

「火をめぐらす鳥」という短編の中で、大江健三郎が、幼いイーヨーを肩車して林の中を散歩する場面がある。

イーヨーは知的障害者で、いまだ言葉を発しない。鳥が鳴いていて、大江健三郎は「何の鳥が鳴いているんだろうね」とひとりごちた。すると天空から、

「それは、クイナです」

という声が聞こえた。イーヨーが始めて喋ったという。 

これって、日本書紀にも同じような話があったと記憶する。私が日本書紀を読んだのもかなり前だから、どこにこの話があったのか指摘することも出来ないのだけれど。 
大江健三郎は、ブレイクについては語るけれど、日本書紀については語らない。  

明らかだと思う。  

大江健三郎の小説世界の本質は、古い日本の記憶の側にあるだろう。  
大江健三郎の出身地というのは、伊予の喜多郡の北東部。もう土佐に近いところだ。宮本常一の「土佐源氏」を読んでみてほしい。西日本を高みから見下ろす秘境みたいな場所だ。 
大江健三郎という作家は、戦後日本の都市中産階級を代弁する者ではないと思う




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「死者の奢り」 「飼育」 「人間の羊」 「不意のオシ」
「セブンティーン」
「空の怪物アグイー」
「レイン.ツリーを聴く女たち」
「さかさまにたつレイン.ツリー」
「無垢の歌、経験の歌」


「静かな生活」
「河馬に噛まれる/河馬の勇士と愛らしいラベオ」
「ベラックワの十年」
「火をめぐらす鳥」
「大江健三郎自選短編」



「火をめぐらす鳥」は大江健三郎、渾身の文学だった。



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大江健三郎は、知的障害者の子供が生まれて、この子供を救おうと決心したのだろう。しかし、人を救うとは何か? 人を救うなんていうことはできるのか? 自分でさえ救われていないのに?  

子供とかかわるうちに、いつしか論理は逆転する。

養護学校の泊りがけの合宿に行こうとする息子を心配して、父親は語りかける。

「イーヨー、大丈夫か、一人で行けるか?」

子供は答える。

「お父さんは大丈夫でしょうか? 私がいなくても大丈夫でしょうか?」

救うものが救われて、救われるものが救う、そういうことってありえると思う。

「火をめぐらす鳥」のなかで、「私」は障害者の息子と、死後のそれぞれの魂が、より大きい魂の集合体みたいなものに共に合流することを夢見る。しかし本当のところは、「私」は独力で魂の集合体に合流することは無理だろう、そして息子にそこまで一緒にだよ、自分を導いて欲しいと思っているのだろう。

「火をめぐらす鳥」の最後で、「私」と息子は駅のホームで一緒に倒れて、二人して起き上がれなくなってしまう。「私」は息子に話しかける。

「イーヨー、イーヨー、困ったよ。一体なんだろうねえ?」

息子は答える。

「ウグイス、ですよ」

論理は完全に逆転しただろう。救うものが救われて、救われるものが救う。
渾身の文学だと思う。
でもそうだよね。
人を救わずして、自分だけ救われようなんて、ありえないよなー。


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ベラックワというのは、ダンテ「神曲」の登場人物らしい。
それで、「ベラックワの十年」という短編は、大江健三郎が40歳ぐらいで、ダンテ「神曲」を原文で読むために頼んだ若い女性イタリア語家庭教師に誘惑されるのだけれど、拒否するという話だ。

不倫の誘いをスルーする話だから、別に物語的にはどうということもない。ベラックワとは、不倫をスルーするほどモノグサな自分と重ね合わせるために登場しているだけで、ダンテの「神曲」自体は飾りみたいなものだね。

「ベラックワの十年」は1988年発表。
この短編小説の落ち着きぶりとはどういうことかというと、大江健三郎の小説世界が、イーヨーというヒーローを得て閉じ始めたということになるだろう。

「ベラックワの十年」という短編は、これだけ読んで面白いというわけではないと思うのだけれど、今まで大江健三郎を読んできた人なら、おそらく何か納得するものがあるだろう。  

終わりの始まりだ。

この書評は短編集の書評になっています。


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大江健三郎「河馬に噛まれる/『河馬の勇士』と愛らしいラベオ」という小説は、日本赤軍のリンチ殺人事件での高校生メンバーで便所掃除係りだった少年が、十何年後かに大江健三郎とちょっと文通をして、その後アフリカで暮らしているっていう話だった。

かつて少年だったコイツが、アフリカでカバに噛まれるんだよね。そして現地で「河馬の勇士」という称号をちょうだいしたらしい。だからといって、別に何か冒険が始まるというわけでもなく、彼はアフリカで車の整備なんかをしながら生計を立てるようになる。ぱっとしない人生といえばその通り。唯一つの勲章は、カバに噛まれたということだけ。

大江健三郎の知り合いの女の子が、「河馬の勇士」に会いに行って、大江健三郎の悪口を言う。それに対して「河馬の勇士」はこのように答える。

「大江は大江で自分のカバにかまれているのじゃないか?」

大江健三郎にとってのカバとは何か、というのははっきりとは書かれていないのだけれど、イーヨーのことだと思う。たいした人生ではないけれど、自分の勲章はイーヨーに噛まれたことだというわけだろう。

話の骨格はレインツリーあたりから一貫している。


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大江健三郎の「連作 静かな生活」は、構造的には、「連作 新しい人よ眼ざめよ」と同じ。語り手が、大江健三郎から、大江健三郎の娘に代わっているだけ。知的障害者である長男イーヨーに家族が救われるというパターンに変わりはない。

大江健三郎とイーヨーとは、ちょっとかみ合わないところがあって、その辺のところを長女や次男にフォローしてもらっていた場面がいままで何度かあった。  
今度は長女が語り手で、父親のデリカシーのないところをチクリとやるところなんて、うまいよなーって思った。

長女と次男、長女とイーヨーの音楽の先生との間で、ロシアの「案内者」という映画について、結構長々と喋っていたりする。しかし、このような芸術論はたいして意味はない。そもそも、イーヨーの音楽の先生は、この映画を観ていないのだから。 キリストがどうとか、アンチクリストがどうとか、凡人がぐだぐだ言っているレベルだろう。

いいところは、最後にイーヨーが全部持っていくというやつだね。
それで何の問題もないよ。

私は、大江健三郎を実際に読む前は、彼をとぼけた左翼作家だと思っていた。しかしこのおとぼけけ振りというのは、イーヨーを持ち上げるための演技の可能性が高い。イーヨーを持ち上げることで、他の知的障害者もまとめて持ち上げようということだろう。

はっきり言って、現代社会の知的障害者にたいする扱いはひどい。多くの人が、こんな人間なら生まれてこなかったほうが幸せだったろう、と心の中では思っているだろう。そんな弱い心を、あえてひっくり返そうとするのだから、すごいよ。

大江健三郎を気に入らない人がいるとして、彼が大江健三郎を批判すれば批判するだけ、大江健三郎はぐだぐたになって、そのぶんイーヨーが持ち上がるという、そういうシステムになっている。

渾身の文学だと思う。


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大江健三郎は、デビュー作から、「この世界で人はいかに救われるか」 ということを書いてきたと思う。そして、子供に知的障害児が生まれて、小説のテーマが「この子は、この世界でいかに救われるか」というところに収斂する。 

これは難しい問題で、正直、口に出してはいわないけれど、障害者やボケ老人なんてこの世界にいない方がいい、なんて思っている人はかなり多いと思う。   

しかし「新しい人よ眼ざめよ」で、ついに論理は逆転する。  

学校の合宿に出かけるとき、大江光さんは、父大江健三郎にこのように言う。  

「しかし僕がいない間、パパは大丈夫でしょうか? パパはこのピンチをよく切りぬけるでしょうか?」  

救うものと救われるものとの逆転。  
知的障害者の息子が、戦後日本を代表する作家の父親の魂を救うという。けっして奇跡ではなく、大江健三郎が誠実に子供の声に耳を傾けた結果ではあるだろう。   
「新しい人よ眼ざめよ」のなかでは、大江光さんとの会話以外にも、いろんなことが並立的に書いてある。ブレイクの詩がどうだとか、二十歳のころ付き合っていた女性と20何年か後に再開しただとか、キリストの救いだとか、最後の審判についてだとか。  

まあそのような逸話は、たいした意味はないだろう。いうなれば、大江光さんの言葉の引き立て役ということだ。  

すばらしいよ。渾身の文学だと思った。  

大江健三郎が、反核の言論を唱えたとする。それは核がある世界よりない世界のほうがよりいいという程度の話であって、そこにたいした意味はない。力強い息子の言葉に救われるであろうぐだぐだの父親の役割を果たしているのだろう



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