magaminの雑記ブログ

カテゴリ:中国思想 > 一八史略

「十八史略」というのは、ウィキにもあるとおり、南宋の曾先之がまとめた「子供向け歴史読本」なんだよね。 
私も含めてなんだけれど、現代人というのは、漢文で中国史を読むなんていうことはほとんどなくて、漢文、その書き下し文の知識レベルというのは、昔の子供レベル以下だろう。 

そもそもの知識レベルが子供なんだから、「子供向け歴史読本」ほど読んで面白いものはないだろう。 以下、雑談みたいな感じで、ちょっと「十八史略」を読んでみたい。



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「帝舜(ていしゅん)有虞氏(ゆうぐし)姚(よう)姓なり。あるいは曰く、名は重華(ちょうか)と」

秦の始皇帝というのは有名なのだけれど、その秦の前の統一王朝というのが周という。この成立が紀元前1100年ぐらいで、この周の前に殷という王朝があって、これは考古学的に実証されている。殷のまえに夏(か)という王朝があって、その初代の王である禹(う)に国をゆずったのが舜なんだよね。 はっきり言って伝説の部類だ。

聖王のなかの聖王。 

その聖王舜の姓が姚(よう)とうらしい。覚えておいて損はないっぽいよね。 

「瞽叟(こそう)の子にして、せんぎょく六世の孫なり。父、後妻に惑い少子象(しょう)を愛し、常に舜を殺そうと欲す」 

 瞽叟(こそう)というのが舜の父親で、象(しょう)というのが舜の弟なのだけれど、これはひどい親子だね。親子でグルになって、連れ子の舜を殺そうとするんだから。連れ子って言っても、瞽叟の連れ子なのに。とんでもない父親だろう。
弟もひどいよ。
「孟子」にあるのだけれど、舜が井戸掃除をしていたら、弟の象が、その井戸にふたをしちゃったというのだから、はっきり言ってマジで殺しにきてるよ。 

「舜、孝弟の道を尽くし、じょうじょうとして、修めて姦にいたらざらしむ」 

舜えらい。これはなかなかできない。殺そうとしてくる親子に孝弟の道を尽くすのだから。そうとうの瞬発力も必要だろう。 

「歴山に耕せば、民みなあぜをゆずり、雷沢に漁すれば、人みな居をゆずり、河浜に陶すれば、器、苦ゆせず」 

 器、苦ゆせずとは、器の出来の悪いものがない、という意味なのだけれど、苦ゆの「ゆ」が変換できないね。まあ、舜は、どこ行ってもみんなに愛されたみたいなことだろう。なかなかこうはいかないよね。  

「居るところ衆をなし、二年にして邑をなし、三年にして都をなす」 

舜が居るところ、こぞってみんなが集まってくるという。こうなると舜って、まったくただものではないだろう。     
と、こんな感じで、紙芝居を見る子供みたいに、「十八史略」を読めたら、それがまずもっての始まりだろうと思う。

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則天武后とは、唐代の女性。 なんと中国史上、空前絶後の女帝。 別に女性が皇帝になって悪いわけでもないと思うのだけれど、いろんな条件が重なって、女性が皇帝になるというのは難しいというのはあるだろう。 現代日本だって、天皇は男しかなれないという法律があるぐらいだから。  

「十八史略」の則天武后について。  

「太宗崩ず。才人、歳二十四。尼となる」  

太宗というのは、唐朝の第2代皇帝李世民だ。武則天は李世民の側室だったから、李世民が死んだから、頭を丸めて尼になったのだろう。24歳は出家するには若い、女ざかりだろうなあ。  

「高宗、寺に幸(みゆき)し、これを見て泣く」  

高宗というのは、李世民の子で第3代皇帝。寺に行って、武則天の美しさにうたれて泣いたという。 もちろん、やっちゃったんだろうなー。 言っておくけれど、武則天というのは、高宗の父親である李世民の側室だからね。ちょっと禁断の愛っぽいよね。 

「時に王皇后、蕭淑妃と寵を争う。密かに髪を長ぜしめ、高宗に勧めてこれをいる。すでに入る。しかして后と淑妃とみな寵を失う。武氏年三十二、ついに昭儀より后となる。王、蕭みなために殺さる」  

まあ、女の争いも恐ろしい。男も恐ろしいけれど、女はなんだか別の恐ろしさがあるよね。武則天、32歳。ついに皇帝の后にまで上り詰めた。 日本では二十歳ぐらいの女性が一番いいと思っている男がメジャーらしいのだけれど、女性の一番いい時期というのはもっと上でしょう。武則天、32歳、最高です。  

「高宗、風眩に苦しみ、百司の奏事を視ることあたわず。あるいは皇后をしてこれを決せしむ。后、性明敏にして文史を渉猟す。事を処して、皆旨にかなう」 

 女性は美しいだけではなくて、頭もよくなくてはいけない。というか、頭のいい女性こそが美しい。これが分からない男が多すぎる。うちの職場にもいるんだよ、自分は高卒だから大卒の女性はちょっと、みたいなのが。 馬鹿の上塗りだ、今汝は画れりだ、あきらめたらそこで試合終了ですよ、だ。  

「高宗の世に在りて、后みずから子の弘を殺し、子の賢を廃す。高宗すでに崩じ、子の哲即位す。  后、朝廷に臨んで制を称し、もって武氏の七廟を立つ」 

鬼気迫るような感じになってきた。そういえば、自分の子供を食べて栄養にする母親の神様っていたよね。 

最後、武則天は皇帝になるのだけれど、この話ってちょっとおかしいよね。 まず、高宗が父親の側室を妻にするのがおかしい。それだけ武則天が美しかったといえばそれまでなのだけれど。 さらに、高宗というのが李世民の九男だということ。普通、長男が跡取りでしょう。まあ、いろいろあったと言われればそれまでなんだけれど。 あと、高宗が直接武則天に政治を任せたということ。普通、誰かをいちまい噛ませるでしょう。まあそれだけ武則天の頭の切れがよかったと言われればそれまでなんだけれど。 トータルで考えて、唐王室って 夷狄の匂いがするよね。 漢帝国とはおもむきが違う。 ローマ帝国と神聖ローマ帝国とが全然違うみたいなことに、ちょっと似ている感じがする。

子供のころから近代小説というのはよく読んだのだけれど、正直、今はあきあきしている。 言文一致形式の文章って、なんだか味気ないよね。 回りくどいのはいいから、結論を早く言え、みたいに思ってしまう。  その点、「十八史略」はいい。 子供のころに絵本を読んで陶然としていたことを思い出す。  今日は、伝説のテロリスト荊軻(けい か)のところをじっくり読んでいく。   

時は戦国最末期、秦の始皇帝がもう世界を統一しようかという。燕の荊軻が秦の始皇帝、当時はまだ秦王政と言っていたのだけれど、これをね、ちょっと暗殺に行くという話。 

「荊軻、行きて易水(えきすい)に至り、歌いて曰く、」 

易水というのは、燕の国の南部国境を流れる川。この川を越えると、もう敵地。荊軻はこの川を越えるに当たって、惜別の歌を歌おうというわけだ。2200年の時を超え、今でも語り継がれる歌がこれ。 

「風蕭々(しょうしょう)として易水寒し。壮士ひとたび去って復(ま)た還(かえ)らず」 

たまらん、説明の必要なし。 

「荊軻、咸陽(かんよう)に至る。秦王政、おおいに喜んでこれを見る。荊軻図を奉じて進む」 

咸陽は秦の首都。図というのは燕の国の地図で、これを渡すと、この土地を献上するという意味になるらしい。 

「図窮まりて匕首あらわる。王の袖をとりてこれを突く。いまだ身に及ばず。王、驚きて袖を断つ。荊軻、これを追う」 

なんか巻物形式の地図の中から匕首が出てきたんだな。これにはたっぷり毒が塗ってあって、一撃コロリなんだよね。渾身の追いかけっこ、始まる。 

「柱をめぐりて走る。秦の法、群臣の殿上に侍する者は、尺寸の兵をとるを得ず。左右、手をもってこれをうつ」 

柱をめぐりて走るだって。場面が急に立体的に思えてくる。殿上では、秦王政しか剣を持つことは許されていないらしい。群臣みな丸腰らしい。どうする? 

「王、剣を負え。ついに剣を抜き、その左股を断つ。荊軻、匕首を引きて王に投げ打つ。当たらず。ついに体解してもってとなう」  

秦王政、剣が長すぎて抜けなかったんだね。そこで一声、「王、剣を背負え」だからね。 たまらん、必要と思える説明さえ削ってくるこの感覚がたまらない。

紀元前209年、始皇帝は死に二世皇帝『胡亥(こがい)』即位。この胡亥が暗君で、秦は滅亡したとも言われるが、これはどうだろう。何百年も続いた春秋戦国時代をついに統一したその秦が15年で滅亡って、ちょっと不思議だよね。その不思議さを解明するヒントみたいなものが、陳勝の言葉の中にかすかに響いているような感じがする。  

二世皇帝、名は『胡亥(こがい)』。東の方、郡県を巡る。『趙高』に言っていわく、
「我、好むところをつくし、楽しみを極めて、吾が人生を終えんと欲す」と。
趙高は言う。「陛下、法律を厳格にして、刑罰を過酷にして、旧臣を除けば、すなわち枕を高くして、志をほしいままにするだろう」と。胡亥、これを然りとし、努めてますます法を厳酷にす。公子、大臣多く死せらる。陽城という町の陳勝という男、若くして人の田を耕す。手を休めちょうぜんとして言う、
「我、富貴となれど、ここの太陽、ここの土、ここの匂い、ここの人々を忘れない」と。
みな笑って言う、
「なんじ、ただ雇われて田を耕すのみ。どうして富貴となろうか」と。
陳勝、ため息をついて言う、

「ああ、燕雀(えんじゃく)安(いずく)んぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや」(小さい鳥には大きい鳥の気持ちはわからない) 

ここに至り、『呉広』と兵を起こす。陳勝・呉広は秦の辺境の守備に赴く小隊長となる。おおいに雨が降り、道を失う。陳勝は言う。「おまえらは時間を失った。これ秦の法において斬首にあたる。死ぬのなら、ただ名を上げるのみ」と。さらに言う。

「王候将相、いずくんぞ種あらんや(人間の価値に血統などというものがあるだろうか)」

 皆これに従う。 陳勝・呉広、、胡亥の兄『扶蘇(ふそ)』、楚の将軍『項燕(こうえん)』と詐称し、国を大楚と称す。諸郡県の衆、秦の法に苦しむものは争いて秦の長吏を殺し、以って陳勝に応ず。

 

始皇帝と荊軻(けいか)との対決というのは、十八史略の中でも屈指の場面だろう。これを書き下し文と完全現代語の中間的な感じで書いていきたい。  
登場人物の説明として、秦王『政』とは未来の秦の始皇帝のこと、樊於期(はんおき)とは、秦から燕(えん)に逃げてきた秦の将軍。丹(たん)とは燕の皇太子、そして荊軻(けいか)とは伝説の刺客。
 

燕王『喜』の太子『丹』、秦に人質たり。

秦王『政』、丹に礼節なく、丹、怒りて燕に逃げ帰り、秦を恨んで報復せんと欲す。秦の将軍『樊於期(はんおき)』罪を得て、燕に逃ぐ。丹、受けて樊於期に保護す。丹、衛人『荊軻(けいか)』の賢なるを聞き、礼を厚くしてこれを請う。
 
丹、秦に荊軻を送り込むことを欲す。荊軻、丹に樊於期の首と燕の地図を秦王に献上することを請う。

丹、樊於期を殺すに忍びず。荊軻、直接『樊於期』に諭して曰く、「願わくは将軍の首を得て、秦王に献上せん。必ず喜びて荊軻を謁見せん。荊軻、左手に秦王の袖をとり、右手でその胸を付かば、すなわち将軍の仇は成就し、燕の恥はすすがれる」

  
樊於期、ガイゼンとしてついに自らの首を切る。太子丹、走りてゆきて首に涙する。荊軻、その首を箱に盛る。またそして天下の短刀を求め、毒薬をもってこれに塗りこむ。この短刀を人に試みるに、血少にしてたちどころに死す。

  
ついに荊軻を秦に送り込む。荊軻、行きて易水という川に至り、歌っていう 

「風しょうしょうとして易水寒し、壮士ひとたび去りてまた還らず」 

その時、白虹、日を貫く。  

 荊軻、秦の都「咸陽」に至る。秦王政、おおいに喜んでこれを見る。

荊軻、燕の地図を奉って進む。

図、広げきわまり短刀が現れる。秦王の袖を取り、これを突く。いまだ身に及ばず。王、驚き立ち上がり、つかまれた袖を引きちぎり、そして荊軻、これを追う。柱をめぐりて走る。 
 

秦の法、殿上に持するものは寸鉄も帯びず。左右の臣、なすすべなく、そして言う。 

   「王、剣を背負え」 

秦王、ついに剣を抜き、刺客の左足を切り下げる。荊軻、短刀を王に投げ打つ。当らず。荊軻、殺される。  秦王、大いに怒り、兵を発して燕を撃つ。遂に燕を滅ぼして郡となす。




テロリスト荊軻、かっこよすぎでしょ


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十八史略がどれくらいインパクトがあるかっていうのを書いていきたい。書き下し文だと、ちょっと難しい感じがするし、完全翻訳だと味がなくなるしで、書き下し文と翻訳文の中間の感じで、十八史略の名場面を表現していきたいと思う。分かりやすいように、人名は『』で、地名は「」で書いていく。 

「魏」、「韓」を討つ。韓、救いを「斉」に請う。斉、『田忌』をして将となし、韓を救わせる。

魏の将軍『龐涓ほうけん』、かつて『孫臏そんひん』と共に兵法を学ぶ。

龐涓、魏の将軍となり、自ら孫臏に及ばないと悟り、策略を用いてその孫臏の両足を断つ。

斉の士、魏に至り、密かに孫臏を担いで帰る。

ここにいたりて孫臏、斉の軍師となり、直ちに魏におもむく。

孫臏、斉軍を率いて魏に入る。

まず10万のかまどを造り煙をあげる。翌日に5万のかまどを作り、その翌日に2万のかまどを作らせる。

龐涓(ほうけん)は喜び言う。

「私は最初から斉軍の怯懦なことを知っていた。斉軍の魏の地に入るこ3日にして、士卒の逃ぐること半ばを過ぎた」 

龐涓、魏軍を率いて斉軍を追撃し、暮れにまさに「馬陵ばりょう」に至る。馬陵、道狭く木々多し。孫臏、伏兵をおく。さらに大木を削り、白くして書いて言う     

「龐涓、この木の下に死す」
                                                斉軍の強弓をよく射る者を多数この木の傍らに伏させ、暮れにこの木のそばに明かりが灯るのを待ち伏せさせる。

龐涓、はたして夜、この木の下に至り、白書を見て、明かりをつけ何が書いてあるかと、この木を照らさせた。

万の矢が放たれた。魏の軍、大いに乱れ散り散りになり、龐涓、「我、孫臏の名をなさしめたのみ」といい、自ら首を切りて死す。斉、大いに魏の軍を破り、太子『申』を虜にす。 



孫臏とは全くの天才というわけでもない。そこがいい。人々が孫臏なる人物を高みに押し上げようという、歴史の息遣いをまざまざと感じる。 


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歴史って、結局は時間の流れに強弱をつけることだと思う。                                  はっきりとした強弱をつけて世界を認識するというのは、当たり前のように思うかもしれないが、じつはこれ当たり前ではない。何らかの知的訓練が必要だ。しまりのない話をだらだらするなんていう人は現代日本にもかなりの割合で存在する。実際に私の職場のおじさんの一人は、昨日食べた夕食のハンバーグの付け合せのレタスの枚数まで報告してくれるから。                                                        この世界の認識に強弱をつけて、世界を体系として認識するというのは中国戦国に始まったと思う。戦国時代が秦の始皇帝によって統一されると、世界認識に強弱をつける必要もなくなってきただろう。世界は全て秦なのだから。しかしここからが中国の驚くべきところなのだが、世界に強弱をつける必要がなくなったら、時間に強弱をつけようとするんだよね。その一つの完成形態が十八史略だと思う。                               中国戦国時代のあの7国が200年以上にわたって、まったくギリギリの総力戦を戦ったことの厚みが、中国の歴史の存在というものにつながっているのではないか。                                      このような意味で歴史の重みというのはあると思う。ローマ帝国は崩壊したらもうそれで復活しなかった。しかし同時代の前漢後漢の帝国は、400年の時を越えて唐の帝国として継続性がある。やはりこの違いというのは、世界の認識を時間の認識に転換することのできた、なんらかの偉大さの結果ではないのかな。               私、英雄史観というものはあまり好きではない。特別の天才が徒手空拳で世界を変えるなんてありえない。底の浅い歴史主義というのは英雄史観に落ち込む。しかし本当の歴史主義というものは、人々の想いが一人の人間をはるか高みに押し上げるという形態をとる。                                                                                                               十八史略には本当の歴史主義ある。

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