「はぐるとはめくるという意味です」

「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終押さえつけていた」


梶井基次郎の「檸檬」は始まる。
私の心を押さえつけている得体の知れない不吉な塊とは何なのか、とつい探求したくなるのだけれど、梶井基次郎はこのような思考パターンを軽やかに拒否する。






「肺尖カタルや神経衰弱がいけないのではない。また背を焼くような借金がいけないのではない。いけないのはその不吉な塊だ」

強いなって思う。

散歩コースに八百屋があってレモンを一つ買う。レモンの爽やかな香りを胸に吸い込む。胸を膨らませるレモンの香りと、胸を押さえつける不吉な塊。自分の胸をめぐるレモンと不吉な塊との相克。

無題



レモン強し。今日は気分がいい。京都の丸善に突撃しようかという。

そういえば私も大学時代は名古屋の栄の丸善によく行った。30年前の丸善というのは人を選ぶような大型書店で、選ばれたような気持ちになっていた私は4階の洋書コーナーでドイツ語の書籍をあさっていた。カフカとかギュンターグラスとかの原書。もちろんそんなものが読めるわけない。かっこつけて何冊も買ったのはいいのだけれど、結局カフカの「城」だけを辞書を引きながら新潮文庫の「城」と読み比べただけだった。

梶井基次郎は丸善に入って画本の棚の前に行く。

そうそう、丸善にはこんなのをいったい誰が買うの? という本が並んでいたりした。今でも覚えているのは、ヤコブス・デ・ウォラギネのキリスト教の聖者・殉教者たちの列伝である『黄金伝説』という本。分厚いハードカバー本で全5巻だった気がする。ちょっとパラパラめくってみた。犬好きの牧師というのがいて、犬に善行を施しまくった結果神の思し召しによって、この牧師は死後ただちに犬の天国に駆け上っていったという記述があった。
何もかもが謎だよね。

梶井基次郎は丸善に突撃したのはいいのだけれど、丸善の雰囲気にのまれて、また不吉な塊が胸を圧迫し始める。

「私は一冊ずつ抜き出しては見る。そして開けては見るのだが、克明にはぐっていく気持ちはさらに湧いてこない。しかも呪われたことにはまた次の一冊を引き出して来る」

だんだん本が積みあがってくる。30年前、私は引き出した本は元に戻しはしたけれど、梶井基次郎の気持ちは分かる。

そしてラスト。そういえばポケットには黄色いレモンがあったんだ。積み上げてしまった本の上にレモンをそっと置く。

「見わたすと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の諧調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた」

カーンと冴えかえるという。
カーンだよ。

レモンをのこして丸善を立ち去り話は終わるのだけれど、とにかくえたいの知れない不吉な塊にたいする気持ちのかぶせ方がすがすがしい。なかなかこうはいかないよ。

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