伝習録 (中公クラシックス) [ 王陽明 ]
伝習録 (中公クラシックス) [ 王陽明 ]



王陽明は明代の新儒教の思想家て、形骸化した朱子学を再編成しようとした人だ。「論語」「孟子」というラインを強調することで中国の近世を強力に持ち上げた。日本にも多大な影響を及ぼして、例えば大塩平八郎とかは完全に陽明学者だった。

もうこんな解説はいらないか。
とにかく暑くて融けそうなんだよね。
融けるな、融けるな。腹に力を入れろ。
「伝習録」よ、私のミゾオチに力を与えたまえ。

「聖人、学んで至るべし」

別に勉強して東大に入れという意味ではない。
孟子の「我も人なり、舜も人なり」という気迫の言説を変換しているんだね。学んだからといって、どういう理屈で舜のような聖人になれるのか。素朴な質問に王陽明は答える。

「聖人の聖たるゆえんは、ただそれその心。天理に純にして、人欲に雑じる無きのみ。なお精金の精たるゆえんは、ただその成色足りて、銅鉛の雑じり無きをもってのごとし」

出た! 精金(純金)の例え。
純金に価値があるように、人欲を排した「天理に純」な心に価値があるという。
天理とは何か、というのはこの暑い中考える必要はない。

「聖人の才力は、また大小の同じからざるもの有ること、なお金の分量に軽重あるがごとし。
「尭(ぎょう)、舜はなお1万オンスのごとく、文王、孔子はなお9千オンスのごとく、禹(う)、湯(とう)、武王はなお7,8千オンスのごとく、伯夷(はくい)、伊尹 (いいん) はなお4,5千オンスのごとし。才力は同じからざるも、天理に純なること同じければ、みなこれを聖人と言うべし」

  尭、舜は伝説の聖王コンビだけあって1万オンスか。孔子はさすがだね、うん9千オンス。伊尹って誰だったっけ? 
いやいや、こういう重量比べをしてはいけない。純金であればみな聖人。

「凡人といえども、あえて学ぶことをなし天理に純ならしむれば、すなわちまた聖人となるべし。なお1オンスの金の1万オンスに比ぶれば、分量は懸絶すといえども、その足色に至る所はもって恥ずること無かるべきがごとし。故に、人は皆もって尭、舜となるべし」

論理は循環した。聖人とは、心に抱える黄金の量によってではなく、質によって決定される。まったくすがすがしいまでの意思の哲学だ。
意思の哲学。そう、気合いだよ気合い。