目次
【登場人物紹介】
【第1.2編 場違いな会合】
【第3篇 好色な男たち】
【第4編 病的な興奮】
【第5編 大審問官】
【第6編 ロシアの修道僧】
【第8篇 ミーチャ】
【第9編 予審】
【第10篇 少年たち】
【最終第12編 誤審】
【エピローグ】
【登場人物紹介】
カラマーゾフ3兄弟
長男 ドミートリー
性格 破天荒
次男 イワン
性格 インテリ
三男 アリョーシャ(主人公)
性格 いいやつ
ドミートリーには二人の彼女がいて
カチェリーナ・イワーノヴナ(お嬢様)
グルーシェンカ (水商売系)
カラマーゾフ3兄弟の父親
フョードル
カラマーゾフ家の下僕の息子、実はカラマーゾフ3兄弟の腹違いの弟
スメルジャコフ
主要登場人物はこれぐらいです。
【第1.2編 場違いな会合】
文字数過多による不表示のためこちらをご覧ください【第3篇 好色な男たち】
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【第5編 大審問官】
まず大審問官とはなにか? 簡単に説明します。
「大審問官」はカラマーゾフの兄弟、次男と三男、イワンとアリョーシャの会話から始まる。
神の創った世界を認めるかどうかというこということについての話。
イワンは認めないと言うんだよね。なぜなら多くの子供達が虐げられているから。神が与えたもうたこの世界の秩序に犠牲が必要だというのなら、少なくとも無垢な子供達はこの犠牲から排除されていなくてはいけない。にもかかわらず現状はどうだろうか。最近の新聞にこのような話があるとイワンは言う。
「真冬の寒い日に5つの女の子を一晩中便所に閉じ込めたんだよ。それも女の子が夜中にうんちを知らせなかったという理由でね。それも実の母親がだよ。真っ暗な寒い便所の中で、悲しみに張り裂けそうな胸をちっぽな拳で叩き、血をしぼるような涙を恨みもなしにおとなしく流しながら、神様に守ってくださいと泣いて頼んでいるというのに。いったい何のためにこんなバカな話が必要なのか」
この意見に対してアリョーシャは
「キリストの犠牲によってすべては許される」
と答える。
この答えに対して、イワンは自分の創った「大審問官」という叙事詩を語る。
「大審問官」
場面は15世紀スペインのセヴィリア、異端審問の最も激しい時代。そこにキリストが降り立つ。人々はそれがキリストだとわかってキリストの周りに集まりだす。厳しい異端審問によって秩序を維持するセヴィリアにとって、これは秩序の危機だ。枢機卿である大審問官はキリストを捕らえて牢獄に閉じ込める。そして大審問官は夜中、キリストをを訪れて、自らの告白をする。
この大審問官の告白の何を重要視するかで、「大審問官」の意味というのは変わってくるとは思うのだけれど、私が重要だと思うところのその告白を要約する。
人間はキリストによって自由を与えられた。しかし人間は何が善で何が悪であるかという選択の自由の重みに耐えられない。キリストの自由では秩序が保てない。ここセヴィリアではキリストの代わりに我々が市民のために善悪を判断してやっている。三つの力によって、すなわち奇跡と神秘と権威。だから愛などという雲をつかむようなお前の言説はここセヴィリアでは必要ない。
これで終わりなのだけれど、この部分にどのような意味を見いだすか、ということが問われるわけだ。 この話の根幹というのは、社会の秩序というものには根拠みたいなものがあるのかどうか、ということになる。アリョーシャはあるという。イワンはないという。 社会秩序に根拠がないのなら、大審問官のように強権的に社会を秩序付けなくてはならないということになる。 ここからはちょっと飛躍するのだけれど、私は、大審問官の章というのは、この「カラマーゾフの兄弟」という作品の中の大きなテーマとシンクロしていると思う。その大きなテーマというのは、人間個人が自分が自分であるということ、すなわち自分の自己同一性に根拠があるのか、ということ。イワンが、社会秩序に根拠はない、と言った時点で、イワンの人格を形成しているところの整合性に根拠がない、ということを宣言していることになる。 その結果イワンはどうなったかというと、頭の中で悪魔と対話するようになった。もうこれは統合失調症だろう。 ドストエフスキーは、社会の秩序についての観念と個人の自己同一性とを、イワンの中でシンクロさせている。 社会であれ個人であれ、秩序、すなわち一体性の形成というのは、外部からは与えられないということになる。
イワンにたいしてアリョーシャは、一体性の根拠は存在すると考えている。 その根拠というのは、この大審問官の章ではキリストということになっているけれども、エピローグでは、アリョーシャは子供達の前でこのように演説する。
「子供のころのなにかすばらしい思い出以上に、尊く、力強く、健康で、ためになるものは何一つないのです。たった一つのすばらしい思い出しか心に残らなかったにしても、それがいつか僕たちの救いに役立ちうるのです。もしかすると、まさにそのひとつの思い出が大きな悪から彼をひきとめてくれ、彼は思い直して、
そうだ、僕はあのころ、善良で、大胆で、正直だった
と言うかもしれません。内心ひそかに苦笑するとしてもそれはかまわない。みなさん、保証してもいいけれど、その人は苦笑したとたん、すぐ心の中でこう言うはずです。
いや、苦笑なぞして、いけないことをした。なぜって、こういうものを笑ってはいけないからだと」
アリョーシャは一体性の根拠を語っている。 しかしこの言説を注意深く読むと、世界というものが個人に少なくても一つ、すばらしい想い出を与えるという前提になっている。持ち上げられた世界にこそ一体性の根拠というものはある。 世界が持ち上げられているかどうかというのは、時代ごとに異なっていて、人間に無条件に与えられているわけではない。 イワン的世界観もありえるし、アリョーシャ的世界観もありえる。
私は、アリョーシャ的世界観を信じるけれども。
この「大審問官」というのは、イワン的世界観を視点をちょっとずらす感じで表現しているものだと思う。
【第6編 ロシアの修道僧】
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【第8篇 ミーチャ】
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【第9編 予審】
カラマーゾフ3兄弟の父親であるフョードルが、何者かに殺されてしまった。
長男ドミートリーが父親殺しの罪で警察に捕まる。彼が殺したという確証はないのだけれど、持っているはずのない大金を持っていたりと、いかにも怪しい。
警察がドミートリーを発見した時、彼は彼女とドンちゃん騒ぎをしていたのだけれど、そのまま拘束されて尋問。そこでは警察当局との思想の対決みたいなことになる。
たんたんとした尋問において、ドミートリーは、
「私の私生活に干渉するのは許しませんよ。あなたの質問は事件に関係ないし、事件に関係ないことはすべて、僕の私生活ですからね」
更にドミートリー、
「あなた方もずいぶん暇なんですね」
近代の尋問というのは、何が証拠になるか分からないということで細かいところまでいろいろ聞かれるというのは、現代日本人でも共通のイメージだと思う。
細かい質問にドミートリーはイライラするのだが、これは勘違いしているから。ドミートリーは魂の対話というのを予定しているのだが、警察当局は、調査管理というのを予定している。このアンバランスをこの9編では明確に描き出される。
魂の対話と調査管理の相克。
卑近な例えを出してみよう。
私の職場で中島さんという70歳のおじいさんは、昼休み毎日はいている靴の裏にガムテープを貼っている。
「中島さん、毎日ビリビリガムテープを貼るんなら、新しく靴を買ったほうが早いんじゃないの?」
「そう思うんだけど、なんだかこの靴に愛着がわいちゃって」
「えっ? このワークマンで1980円で買った靴に愛着?」
「うん、なんとなくね。今月いっぱいは粘ろうと思うんだ」
靴の裏にガムテープを貼って靴の寿命を延ばすことが、靴に対する愛着の表現だとは考えもつかなかった。中島さんと靴との魂の対話というのがあったと思う。私は調査管理の論理を中島さんにぶつけてみた。中島さんは愛着という表現でそれを拒否する。
ただ私だから中島さんも拒否できた。しかしこれがもっと巨大な知の体現者から強制されたとするなら、中島さんは自分の愛着に執着し続けることが出来ただろうか。中島さんと靴との魂の対話はどこまで深くなれるものなのだろうか。
結局、ドミートリーの最後の言葉が警察当局に回収されてされてしまったら、話はそれで終わってしまう。最後の言葉を自分のために取っておく、そんな矜持あるいは狂気をもつものこそ立体的な人間だと思う。狂気をはらむ人間こそ生々しい存在で、ギリギリまで近づいてみたいという、心の底を覗き込んでみたいという、そう思わせるものがあるのではないか。
近代と人間との相克。人間と人間との相克。
「蛇が蛇の頭を食べようとしている」
ドミートリーはこのように言うけど、本当にそう。何が正しいとかというのではなく、その相克が美しいという。
【第10篇 少年たち】
アリョーシャはコーチャという14歳の少年と知り合いになる。コーチャという少年は中二病なんだよね。既成の権威を否定するために、より大きな権威をよそから(特に外国)から借りてくるということ。
コーチャの行為自体は間違ってはいないと思う。
そもそも近代以降における既成の権威というものは怪しげなのが多すぎる。近代において科学というのは権威である。数学と理論物理は第一級の科学であると私も認める。ただほかのものはどうだろうか。
例えば生物学とか医学とか、こいつらは科学としては二流だ。
生物学においては、生物の進化というのがなぜ起こるのか全く解明されていない。生物学ではいまだに150年前のダーウィンの進化論がメインフレームだ。ありえないでしょ。150年前の学説を超える論理がいまだに出てこないなんて。
医学においては、人間の意識というものが全く解明されていない。意識の座が脳のどこの部分にあるのかとかは分かっているのだけれど、意識そのものとは何であるのか、ということが分かっていない。人間存在の中核である意識の存在体制を理解できない現代医学なんていうものは、こういう言葉を使うと申し訳ないけれども、片手落ちでしょう。
生物学や医学でさえこのありさま。さらに経済学とか精神分析学とかは科学としては推して知るべし、三流。こいつらは、正直オカルトの部分もかなりあると思う。このように科学の中にもランクがあるにもかかわらず、それぞれの科学が、われこそは数学並みに一流であるという顔をする。
ここがコーチャのような力あふれる少年には気に入らない。だからより大きな権威を借りてきて既存の権威、この小説の中では教育学とか医学とかということになるのだけれど、を否定しようとする。
コーチャの考えは間違っていない。そもそも医学とか精神分析学なんていう二流以下の学問が、数学並みの一流の科学でございという、そのずうずうしさが間違っている。フーコーだね。
しかし何故二流以下の学問の知が、この社会において異常な力を持つのか。
この世界では何らかの知のヒエラルキーに参加していないと馬鹿だと判断されてしまうからだと思う。コーリャも既成の知の権威を否定するために、よそから別の知の権威を借りてくる。既成の知の権威を拒否するだけだと、馬鹿だと判断されてしまう、それがコーリャには耐えられない。
このコーリャにたいしてアリョーシャはこのように言う。
渾身のアリョーシャの言葉を堪能してほしい。
「この節では才能をそなえたほとんどすべての人が、こっけいな存在になることをひどく恐れて、そのために不幸でいるんです。ほとんど狂気のさたですね。悪魔がそうした自負心の形を借りて、あらゆる世代に入りこんだんです。自己批判の必要さえ見いださぬようになってしまったんです。君だけはそうじゃない人間になってください」
悪魔が自負心の形を借りてだって。
悪魔がだよ、自負心の形を借りるんだよ。
誰もが心当たりがあると思う。
アリョーシャは、そのような悪魔を拒否するというのではなく、悪魔を寄せ付けないのがすごい。さすが主人公。
【第11篇 兄イワン】
長男ドミートリーが父親のフョードルを殺したという容疑で逮捕される。
このフョードルを殺したのは誰なのか。「カラマーゾフの兄弟」では殺人が起こって、犯人が誰なのかという謎があるわけで、この小説は推理小説としても読めるという意見もある。
そもそも推理小説とはなんなのだろうか。
推理小説の形式というのは極めて近代的なものだと思う。推理小説の形式とは何かを説明するために、一つ例を出しましょう。
「古畑任三郎」という推理テレビドラマがある。
古畑任三郎は刑事で、犯人をいろいろ推理するというドラマなんだけど、この犯人というのが将棋の棋士だったり、有名な女優だったり、医者だったりする。犯人は自分の社会的名声を守るために殺人を犯す。
さらに言うなら、犯人は自らが所属する知の体系を維持するためには殺人もしょうがないと思っている。この世界には様々な知の体系があって、それぞれがお互いに切磋琢磨している。頭がいいと思われたい人間は、結局どこかの知の体系に所属しなくてはいけない。それぞれの人間がそれぞれの知の体系に所属して、それぞれの論理を持つ。自分そして自分の所属する知の体系を否定しようとするものは、簡単に排除されてしまう。
しかしこの世界にはより大きな秩序があって、個別の知の体系といえども、全くばらばらに存在することは許されない。殺人などという一線を越えた体系維持運動は認められない。古畑任三郎という探偵は、はみ出た知の体系のオルガナイザーを摘発し、知を回収して回る国家体系の番人なんだよね。
「カラマーゾフの兄弟」でおこる殺人と解決は、この探偵小説の形式とは全く異なる。アリョーシャはいきなり次兄イワンに
「あなたは犯人ではない」
という。当たり前だ、そもそも長男ドミートリーが容疑者として逮捕されているんだから。しかし話の結末というのは、イワンが父親が死んで欲しいと密かに願っていたので、スメルジャコフというヤツがイワンの代わりにフョードルを殺したというものだった。スメルジャコフにしてみれば、イワンは殺人の共犯だが、アリョーシャにしてみれば、「イワンは犯人ではない」ということになる。それぞれにそれぞれの真実がある。アリョーシャは知の体系をより上位の体系に回収しようなんて思っていない。ただただ真実を喝破するだけ。
そこには推理小説特有のカタルシスはなく、巨大な愛があるだけだ。
【最終第12章 誤審】
ドミートリーは父親殺しの容疑で刑事裁判となる。
近代においての裁判とは国家の枠組みが強烈に照射する場所である。国が人間のプライベートを回収する。
バフーチン的に言えば「最後の言葉」を回収する、それが近代であり、さらに言えば近代裁判だ。
ドミートリーの婚約者であるカテリーナは、裁判の中でこのように告白する。
「あたしと結婚するきになったのだって、あたくしが遺産を相続したからに過ぎません。そうじゃないかとかねがね思っていました。ああ、このひとはけだものです。あたくしがあのとき訪ねていったことを恥じて、一生この人にびくびくしつづけるだろう、だから自分はその子とで永久にあたくしを軽蔑し、優越感をいだいていられると、いつもおもっていたのです。............. 」
カテリーナの最後の言葉は国家に回収された。カテリーナも、ドミートリーを愛していると感じた瞬間だってあっただろうし、もちろん憎んだ瞬間もあっただろう。カテリーナの存在というのはゆれていたのだけれども、「断言」することによって存在が固定されてしまう。
存在が固定されていない人たちを統治するより、存在を固定されている人たちを統治する方がコストが安い。このコストパフォーマンスの優位から、近代国家がたち現れてきたのだと思う。
私たちは日々「断言」してまわなっていないだろうか。注意深く観察して欲しい。不用意な断言が世界には溢れていないだろうか。
ドミートリーの最後に検事の論告と弁護人の最終弁論がある。これが圧巻。近代がいかに人間を固定化するかということが圧倒的な筆力で表現されている。
弁護人はスメルジャコフという人間をこのように表現する。
「彼は自分の出生を憎み、それを恥じて歯ぎしりしながら思い起こしていました。幼いころの恩人だった召使のグリゴーリー夫妻に対して、彼は敬意を払っていませんでした。ロシアを呪い、ばかにしていたのです。彼はフランスに行きフランス人に帰化することを夢見ていました。彼が自分以外のだれも愛さず、不思議なほど高く自分を評価していたように思います」
この断言ぶり。たしかにスメルジャコフは誰もが友達になりたいようなヤツではない。
でも、フランス語の単語を覚える努力をしていた。
実際にフョードルを殺し、その罪をドミートリーになすりつけた。しかし365日ロシアを呪い続けたわけでもないだろう。隣の家の娘とのロマンスだってあった。スメルジャコフの作る料理は一級品だった。スメルジャコフだって、その存在はゆれていた。しかしこの断言ぶり。
「カラマーゾフの兄弟」を読み終わって思うのは、このドストエフスキーという作家のパワーだ。最後の言葉を回収しようとする近代を悪だと設定するわけでもなく、最後の言葉を守ろうとする人が無条件に善だというわけでもない。ただ近代と人間とのギリギリの相克を、底に飛び散る火花や涙を圧倒的な筆力で活写するという。
この世界に最後の言葉を回収されるのを拒否すること。
この世界と向き合って生きるということ。
カラマーゾフはこのギリギリの二律背反の中を生きる。
「カラマーゾフ万歳」
【エピローグ】
ドミートリーの父親殺し裁判のクライマックス、陪審員に対して検事はこのように言う。
「ロシアの宿命的なトロイカは、ことによると破滅に向かってまっしぐらに突き進んでいるのかもしれません。他の諸国民が今のところまだ、がむしゃらにつっぱしるこのトロイカに道を譲っているとしても、敬意からでなどなく、単に恐怖からに過ぎないでしょう」
突っ走るトロイカとは急激に西欧化しようとするロシア。混乱の中で明らかな父親殺しを無罪にするような行き過ぎた文明化は逆に西欧からの反発を招くだろうということだろう。
これに対して弁護人は最終弁論の最後にこのように言う。
「われわれのところに、破滅した人間の救済と更正を、あらしめようではありませんか。もしロシアの裁判がそういうものであるならば、ロシアは前進するでしょう。狂気のトロイカではなく、偉大なロシアの戦車が厳かに悠然と目的に向かって進むのです」
検事と弁護人が語る物語というのは、物事の裏と表だろう。
陪審員の皆さん、私達は世界をこのように確定しました。さあ、どちらが正しいか判断してください、というわけだ。
知の権威というものは、世界を確定しようとする。人民の世界認識を確定した方が、国家として人民を統治しやすい。近代というものは、この世界は合理的だという、非合理な信念の上に成立している。
しかし、人間の認識世界というものは確定しているものなのだろうか。好きな女が次の瞬間憎くなるなんていうことはないだろうか。本当のところ、世界は揺れているのではないだろうか。
エピローグでアリョーシャは子供達の前でこのように演説する。
「子供のころのなにかすばらしい思い出以上に、尊く、力強く、健康で、ためになるものは何一つないのです。たった一つのすばらしい思い出しか心に残らなかったにしても、それがいつか僕たちの救いに役立ちうるのです。もしかすると、まさにそのひとつの思い出が大きな悪から彼をひきとめてくれ、彼は思い直して、
そうだ、僕はあのころ、善良で、大胆で、正直だった
と言うかもしれません。内心ひそかに苦笑するとしてもそれはかまわない。みなさん、保証してもいいけれど、その人は苦笑したとたん、すぐ心の中でこう言うはずです。
いや、苦笑なぞして、いけないことをした。なぜって、こういうものを笑ってはいけないからだ、と」
そう、子供のころ、世界は揺れていた。世界が確定したと思い込んで大人になったつもりなっても、そうではない時があった。大切なのは最後のところで世界は揺れているものだという記憶だろう。
カラマーゾフの兄弟という小説は、世界を確定しようとする近代の中で、最後の揺らぎを、最後の言葉を守ろうとするカラマーゾフの魂の遍歴の記述だって感じた。
◆◆カラマーゾフの兄弟 / ドストエフスキー/原作 岩下博美/まんが / 講談社