magaminの雑記ブログ

2018年11月

アンチ安倍を語るリベラルは、革新というよりメンタリティーとしては保守だよね。冷戦構造時代の社会体制を心のふるさとにしているだろう。
現代日本の状況は昭和初期に似てきている。在特会などというものが若年層の支持を集めたりしていて、五一五事件の裁判の時に、減刑嘆願書が大量に寄せられたことがあったのだけれど、これとかぶっている感じだろう。

リベラルは偽善っぽくて嫌いという人も多いとは思うけれど、右翼を抑える防波堤としては存在意義はなくはないだろう。



magamin1029

現在から戦後の言論を読み返してみると、リベラル勢力より保守のほうが言論のレベルが高いです。丸山真男よりも竹内好のほうが言葉の力を持ちます。

しかし戦後からソビエト崩壊までは冷戦時代であって、日本は自由主義陣営の一翼としてアメリカにベットするしかありませんでした。戦前のことを考えても意味がなかったのです。そんな時代においては、右翼はチンピラの戯言であって、左翼はインテリの言論遊戯でした。
それでよかったんですよね。冷戦という枠組みがあったから。とぼけたことを言っても、所詮は枠組みの中の言論であって、誰もが自らの言論に責任を持つ必要がありませんでした。

冷戦が終わって枠組みが外れてしまった。
1980年代には、すでに自由主義陣営の勝利は明らかでした。明らかだったのだけれど、一応ソ連というものは存在していたし、自由にやって経済が発展すれば、それはよりソ連を追い詰めることになるし、まあやりたいだけやっちゃえみたいなことになりました。右派は経済の自由を、左派は精神の自由を呼号しました。

バブル崩壊のあとのソ連解体。
自由主義陣営の勝利万歳みたいな感慨はありませんでした。だって自由主義陣営が勝つのは分かっていましたから。ソ連は末期、計画経済で疲弊して、商店に物が並ばないなんてことが、たびたび報道されたりしました。やっぱり計画経済より自由主義経済だよね、みたいな論調がマジョリティーでした。

あれから25年。特に日本でなのだけれど、自由主義の勝利って何だったのかなって思います。
安倍政治というのは自由主義の否定でしょう。しかしこの安倍政治が長期政権ですから。去年が衆議院の選挙でしたから、任期はあと3年。安倍首相がもうあと1年首相をやれば、桂太郎を抜いて歴代首相在任日数ランキングのトップになります。
桂太郎を抜くんですよ。桂太郎というのは、日露戦争時の総理大臣で明治天皇の信頼もきわめて厚かったです。なおかつ桂園内閣と言って、薩長閥の代表として西園寺公望と二人で総理大臣という職をたらいまわしにした人物です。この桂太郎を首相在任日数で抜くだろうというのだから普通ではないです。

そしてこの安倍政治を批判するべき自由主義陣営がどうしようもない。
一体保守はどこに行ってしまったのでしょうか。でもこれをよく考えると、冷戦時代の保守というのは、経済は自由主義だとは言っていたのですが、かなり福祉政策にかじを切っていて、ソ連の戯画化されたような計画経済よりは自由主義的だったというものでした。

問題はリベラルです。現在のリベラルの劣化というのはどうでしょう? 
はっきり言って、現在のリベラル陣営というのは右翼を叩くことで留飲を下げているというレベルです。そもそも右翼の言論というのは、30年前まではチンピラの戯言扱いだったのですから、知的レベルの高さを自認するリベラルが、右翼と同じ土俵でガチンコ勝負せざるを得ないというだけでもうすでに劣化なのです。
こうなると右翼の作戦勝ちです。少ない手駒でリベラルの大軍勢を引き付けているわけですから。その結果、安倍政権はとんでもない長期政権になってますから。

リベラルにとって何が悪かったのかというと、戦後、冷戦という枠組みが与えられたから、それに寄り掛かって、自らの論理を鍛えることを怠ったからです。ではどのような言論を鍛えるべきだったのかなんて言うことは、もう分からなくなってしまっているのです。

安倍晋三には戦前という根拠があるけれど、リベラルには根拠がなくなってしまっています。リベラルがぼんやり寄り掛かろうとしている根拠とは冷戦時代の根拠であって、ふざけきった馬鹿を言うものありですよ。
このままでは世界が壊れてしまうと嘆くリベラルもいるでしょう。それはそうです。リベラルの世界観は壊れてしまうでしよう。リベラルにとって世界は崩壊するでしょう。
真理とは決して真実などというものではなく、それなくしてはその人が生存できないものであろう条件なのですから。



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保守は右でリベラルは左と言われていますが、いったい何を基軸に右とか左とか言っているのでしょうか?

近代というのは精神と物質の二元論の世界でありまして、簡単に言いますと、論理と欲求というものを明確に分けて考える世界観ということになります。
保守とは、人間の自由な論理的思考を伝統などで縛る代わりに、欲求というものについてはある程度の自由を認めましょうという立場であり、
リベラルとは、論理的思考は自由にする代わりに、欲求というものを社会的に縛っていきましょうという立場です。
リベラルは社会的に欲求を縛るわけですから、経済的弱者を救うような高福祉政策というのが売りみたいになります。

国家と個人というのはシンクロしていまして、自分が保守的生活を送るものは国家に保守的政策を求めるし、自分がリベラルであると自認するものは国家にリベラル的政策を期待します。
ここまでは分かりやすい話です。

しかし問題なのは、リベラルというものが無条件に成立するものであるか、ということです。
論理的に自由な人間は、本当に自分の欲求を制御することができるでしょうか? 
論理的思考のできない人は、ある意味論理的思考から解放されています。このような人は社会の底辺に沈んで、もらった給料をもらっただけ使いがちです。論理的思考から解放されているからと言って、欲求を制御するなんてことは出来ていないです。
事実はリベラル論理と逆であって、論理的思考ができない人は、自分の欲求を制御できなくなりがちなのです。
当たり前の話です。

リベラル思想というのは矛盾しているのです。精神的な解放は欲求の解放と直結します。リベラルは反論すると思いますよ。自分は精神的に解放されているが、欲求はきちんと制御していると。

私は、本当に左翼リベラルを自称する人は精神的に解放されているのですか、と問いたいです。解放されているつもりでも、本当は何かに縛られているのではないですか。
何に縛られているのか? 
例えばリベラルを呼号する新聞、テレビは、コメンテーターとしてどこどこ大学の教授だとか権威を借りてきています。精神的に解放されているなら権威に寄り掛かる必要はありません。話される内容のみを精査すればいいのです。
左翼リベラルを自称する人たちは、インテリを気取っていないでしょうか? 肩書がですよ、精神科医だったりライターだったり芸術家だったりしていないでしょうか。精神的に解放されているなら、趣味のレベルであるだろうものを職業などと語ったりしないでしょう。

日本がゆたかであった時代は自称リベラルが許されるということもあったと思いますが、ここまで日本経済がシュリンクすると自称リベラルなどというものは許されないでしょう。



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「立花孝志の頭の中を公開します」

というのをユーチューブで見て、ちょっと感動してしまった。彼の評判というのはよくないだろうと推測されるけれど、語っていること自体の整合性とその根拠は確立されてある。

「正直者がバカを見ない日本にしないと。嘘をついたり隠し事をしたりする人が出世するような日本にしたらいかんでしょう。
もしそうしたいんだったら、そういう教育を子供たちにしなきゃ。嘘のつき方を子供のころから教えてあげるんですよ。嘘をつくことが立派な大人なんだという教育に変えないと。
まじめにやって嘘をつくなと、こんなことを小学生中学生のころから学校で教えて、大人になったら急に肩をたたいてね、大人になれよ嘘をつけよ、と言う。

そんなことをするから僕みたいに心の病気になる人が出てくるわけです。

僕は学校の教育が間違っているとは思いません。正直に素直に生きている人間が評価される日本にしていきたいと、僕は思っているだけです」

これは完全に左翼リベラルの上からかぶせてきている。

なぜ安倍政権が若者から支持されているかというと、結論から言えば、自由主義が多くの若者に拒否されているからだろう。これが何の自由かというと恋愛の自由だ。

分裂, 離婚, 分離, 関係, カップル, 結婚, 競合, 引数, 別, 危機
【お金は再配分できるが、恋愛は再配分できない】

恋愛やそれに伴うセックスが全く自由になってしまったから、多くの若者が女性にあぶれてしまっているという。
若い女性というのは股に蜜ツボをはさんで歩いているようなもので、あれちょっとずるいよね。あの蜜ツボが自分だけの物であると考えるなら、それを出来るだけ高く売ろうと考えるのは自然だろう。自由主義における必然の帰結だ。

20代男性の童貞率が40%ということになっている。最近の若者の草食化というのが言われるけれども、男女が互いを求めあう情熱なんていうのは万古不変だ。男性の童貞率や未婚率が上昇しているのは、SEXの供給が絞られてしまったからだろう。では、女性の蜜ツボはどこに行ってしまったのか。

昔、まあ昔といっても30年ほど前なのだけれど、男性の生涯未婚率は4%ほどだった。今から考えると異常に低いのだけれど、これはどうなっていたのか。
おそらく、女性の蜜ツボを出来るだけ多くの男性に配分するようなシステムがあったのだと思う。これは男性からは見えにくいのだけれど、女性世界の中に、蜜ツボを回収し再配分するようなオルガナイザー的人物が要所要所に存在していたのだろう。
いや、これは現在でも存在はしているだろう。女性を多く抱える企業内においては、女性世界が形成されていて、抜け駆け禁止とか社内での蜜ツボ不当廉売禁止とか暗黙のルールがあって、ボス的な女性がルールの番人になっているというのは大いにあり得る。

この女性世界に接続できない男性というのが、近年増えてしまったのだろう。地域の一体性が消滅してしまって、フリーターや派遣の男性というのでは、女性の蜜ツボ再配分世界に接続できない。
接続できずに自由主義世界に投げ出されてしまっては、そこは全く弱肉強食の世界で、これは厳しい。SEXできなくても死ぬわけではないから、負け犬は誰にも同情してもらえないという。

ゆえに若年層で反自由主義的な雰囲気が醸成されてしまっているのだろう。

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始皇帝と荊軻(けいか)との対決というのは、十八史略の中でも屈指の場面だろう。これを書き下し文と完全現代語の中間的な感じで書いていきたい。  
登場人物の説明として、秦王『政』とは未来の秦の始皇帝のこと、樊於期(はんおき)とは、秦から燕(えん)に逃げてきた秦の将軍。丹(たん)とは燕の皇太子、そして荊軻(けいか)とは伝説の刺客。 

 燕王『喜』の太子『丹』、秦に人質たり。秦王『政』、丹に礼節なく、丹、怒りて燕に逃げ帰り、秦を恨んで報復せんと欲す。秦の将軍『樊於期(はんおき)』罪を得て、燕に逃ぐ。丹、受けて樊於期に保護す。丹、衛人『荊軻(けいか)』の賢なるを聞き、礼を厚くしてこれを請う。 
丹、秦に荊軻を送り込むことを欲す。荊軻、丹に樊於期の首と燕の地図を秦王に献上することを請う。丹、樊於期を殺すに忍びず。荊軻、直接『樊於期』に諭して曰く、「願わくは将軍の首を得て、秦王に献上せん。必ず喜びて荊軻を謁見せん。荊軻、左手に秦王の袖をとり、右手でその胸を付かば、すなわち将軍の仇は成就し、燕の恥はすすがれる」  
樊於期、ガイゼンとしてついに自らの首を切る。太子丹、走りてゆきて首に涙する。荊軻、その首を箱に盛る。またそして天下の短刀を求め、毒薬をもってこれに塗りこむ。この短刀を人に試みるに、血少にしてたちどころに死す。  
ついに荊軻を秦に送り込む。荊軻、行きて易水という川に至り、歌っていう 

「風しょうしょうとして易水寒し、壮士ひとたび去りてまた還らず」 

その時、白虹、日を貫く。  

 荊軻、秦の都「咸陽」に至る。秦王政、おおいに喜んでこれを見る。荊軻、燕の地図を奉って進む。図、広げきわまり短刀が現れる。秦王の袖を取り、これを突く。いまだ身に及ばず。王、驚き立ち上がり、つかまれた袖を引きちぎり、そして荊軻、これを追う。柱をめぐりて走る。 
 秦の法、殿上に持するものは寸鉄も帯びず。左右の臣、なすすべなく、そして言う。 

   「王、剣を背負え」 

 
秦王、ついに剣を抜き、刺客の左足を切り下げる。荊軻、短刀を王に投げ打つ。当らず。荊軻、殺される。  秦王、大いに怒り、兵を発して燕を撃つ。遂に燕を滅ぼして郡となす。



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日産のゴーン逮捕について、安倍政権の何かから目をそらせるための国家の陰謀みたいな主張をする人がいるけれど、ちよっと足りないよな。このような人は自分のことを自由主義者だとかリベラルだとか考えていると思うけれど、陰謀論に落ち込んだリベラルはリベラルの要件を備えていない。


全くネトウヨと同じレベル。
しかしネトウヨはわざと煽っているという部分があるけど、自称リベラルはマジだから。ネトウヨよりレベルが低い。
追い詰められているのだと思う。リベラルは人を救う前に自分を救わなくてはならない。



第一次世界大戦以前のヨーロッパというのは、いろいろあっただろうけれど基本的に平和な世界だったと思う。各国の指導者層の間に、同じ文化を共有していることからくる暗黙の共通認識があったろう。  
第一次世界大戦の発端は、セルビア人によるオーストリア皇太子暗殺だ。正直、この事件自体はたいしたものではない。オーストリアはセルビアに宣戦布告をしたが、適当にセルビアをいじめておけば、そのうちどこかの国が幕引きの仲介をしてくれるだろうと考えてはいただろう。そしてオーストリア側に立ってドイツが参戦、セルビア側に立ってロシアが参戦、ロシア側に立ってフランスが参戦、ということになり大戦争の様相を呈してきた。しかしこの時点でも、多くの人は、クリスマスまでには戦争は終わるだろうと考えていた。ところが、世界戦争は4年続き、死傷者3000万人という大戦争になってしまった。   

これは結局どういうことなのかというと、多くの人は、ヨーロッパには社会秩序に対する暗黙の共通認識があると思っていたのだけれど、実際にはその共通認識はある水準以下に低下していた、ということだろう。だから戦後、ベルサイユ条約や国際連盟の創設によって、侵略の不可ということが明記されるようになった。  
すなわち、ベルサイユ条約で侵略が不可とされたから、それ以前の侵略は許されて、それ以後の侵略は許されないとか、そのようなことではない。ヨーロッパ諸国間で、いままでの暗黙の共通認識では秩序維持は怪しいので、暗黙のところを明文化しようというわけだ。  
ただヨーロッパ文明内の秩序維持の問題であって、基本的に日本とかは関係ない。日本が弱体化してヨーロッパのどこかの国に侵略されたとしても、ベルサイユ条約に基づいて国際社会が助けてくれるとか、ベルサイユ体制というのはそのようなものではない。現に日本はベルサイユ会議に、人種差別反対条約の申請をしたが、あっさり無視されている。




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話の内容というのは、
私たちのこの現代においてサイコキネシスを使う人達が発見されます。この念動力者達と一般人との戦闘によって文明が崩壊し、いろいろあって1000年後のこの小説の舞台では、日本の人口は念動力者のみ5万人で、いくつかの村に分かれて暮らしているという状況になっています。人間個々人の持つ念動力というのは極めて強力で、注意深い統制によって村の秩序は支えられているということになっています。
主人公は関東唯一の村に住む女性で、小説初期は14歳だったのですが、話が進むにしたがって年を重ねていきます。
村の周りにはバケネズミという言葉をしゃべる人型の大型ネズミの集団が暮らしていて、村人はその強力な念動力によってバケネズミを支配しています。主人公の女性は、村とバケネズミの狭間で、まあなんというか世界の成り立ちを理解していくということになります。
念動力なら私も使えますよ。現在、念動力によって脳内シナプスを発火させて指を動かしキーボードを打っていますから。
どうでもいい話は置いときまして、この小説は日本SF大賞を受賞しています。SFですから気楽に読めるのかなーと思っていたのですが、なかなかそういうわけにもいかないような作りになっています。
バケネズミというのは動物ということになってはいるのですが、言葉をしゃべる人型の大型ネズミとなると、これはもう人間でしょう。ここが引っかかってしまうと、最後まで引っかかりっぱなしです。
実際に、念動力で楽をしている人間より、鍛えられたバケネズミの指導者のほうが頭が切れていたりするのです。
話の大枠が、念動力にあぐらをかいた人間が徹頭徹尾、喋る人型ネズミを差別するというもので、これはSFと言えるのかという疑問はあります。私、SFに詳しくないのですが。
人間とネズミについての関係性を脇において読むなら、これは結構面白い小説で、文庫で1500ページほどあると思いますが、その長さも気にならないです。アクションも念動力アクションですから、とにかく派手で楽しめます。
この小説は難しいことを考えずに読むのが一番です。オチもあるのですが、あまり気にしない方がいいと思います。
SFですから




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百田尚樹のツイートに対する左翼のぶら下がりがすごい。
百田が沸点が低いと書くべきところを、沸点が高いと書いたとか、どうでもいいことに驚くべき粘着だ。右翼と左翼リベラルって仲いいんじゃないの、実は。

右翼のほうが弱者だから炎上商法を採用しているのだろうけれど、それに喜んで釣られる左翼リベラルのメンタルもきつい。
政治的なことはうかつには語れないような状況になってきた。右も左もヒステリーというのだから、これはちょっとひどい。

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