magaminの雑記ブログ

2018年05月

儒教における聖典というのがあって、四書五経(ししょごきょう)という。

五経というのは、「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」を指すのだけれど、正直この辺は読んでもよく分からない。中国の宋代に入って、この五経を棚上げして、「論語」「大学」「中庸」「孟子」の四書を重視しようという流れができた。この流れを集大成したのが朱子学だ。
しかし、「大学」「中庸」というのは「礼記」のなかのそれぞれ1篇であって、すなわち近世以降の儒教においては、論語と孟子が二本柱となっている。

では、「孟子」なる書物にはどのようなことが書いてあるのか。全文紹介するというのはだいそれたことであって私なんかにはムリなのだけれど、「孟子」の最後のところだけ、私なりに紹介します。

「万章曰く、孔子は我が門を過ぎて我が家に入らざるも、我恨みざる者はそれただ郷原(きょうげん)か。郷原は徳の賊なりとのたまえり 問う。いかなればすなわちこれを郷原(きょうげん)と言うべき」

論語の陽貨第十七 457 に
子日わく、郷原(きょうげん)は徳の賊なり
とある。孟子の弟子の万章は、論語のこの部分の意味を問う。まず郷原とはなにかということだ。普通、郷原というのは、村の誠実な人という意味なのだけれど、万章の質問に対して、孟子はこのように答える。

「この世に生まれてこの世の為す所を為さんのみ。(人からよく言われれば)すなわち可なりといいて、えん然として世に媚びる者は、これ郷原なり」

つまり、この世に生まれて世間の期待通りに生きて、よろしくやれればそれでいいという、これが郷原なわけだ。ちょっと物足りないヤツらだとは思うけれど、徳の賊なんて言われるほどのこともないのではないだろうか。
万章も同じようなことを考えて、孔子が郷原を「徳の賊」とまで言ったのはなぜかと問う。これに対して孟子は答える。

「これを非(そし)らんとしても言うべきなく、これを刺(そし)らんとしても刺るべきなし。流俗に同じくし、汚世に合わせ、ここにおること忠信に似、これを行うこと廉潔に似たり。衆皆なこれを喜び、自らはもって是となさんも、しかももって尭舜(ぎょうしゅん)の道に入るべからず。故に徳の賊というなり」

尭舜(ぎょうしゅん)とは、中国古代における伝説の聖王。
郷原のよくないところは、いい人であるふりをしているところだと言うわけだ。ふりをすることが罪なんだな。
プラトンも「国家」という本の中で同じ論理を展開していた。「国家」において、ソクラテスは「正義を救ってくれ」と懇願される。どういうことかというと、この世の中、多くの物や観念は何らかの役に立つという理由で存在が許されているわけなんだけれど、「正義」ほどの重要観念ならそれ自身の中に存在の価値を確立して欲しいという。「正義」というものが、人から評価されるとかお金が儲かるとか、そういう下賎な価値で支えられるというのではなく、正義が自らの足で立つにはどうすればいいのかというわけだ。

孟子もプラトンも、価値は自分の外ではなく自分の内に持つべきだと言うわけだ。
これは極めて近代的な考え方だろう。現代でも道徳の内面化が必要だ、などとよく言われる。私は「道徳の内面化」などという言葉は好きではないけれども、このようなことを言っている人の意味するところは、価値を自分の中に持ちたいという渇望だろう。
孟子やプラトンはすごいよね。2300年も昔に、すでに近代的な考え方をしていると言う。本当にすごい、孟子やプラトンは近代的な考え方をしている。

本当に?

論理は逆なのではないだろうか。孟子やプラトンが近代的な考え方をしているのではなく、近代が孟子やプラトン的な考え方をしているのではないだろうか? ヨーロッパがかつてルネッサンスで発見したものはプラトンだろう。日本の明治維新の原動力の根源は孟子だろう。吉田松陰も佐久間象山も魂を傾けて孟子を読んでいた。

孟子における「価値が内在化する世界観」の根拠は何か。「郷原は尭舜(ぎょうしゅん)の道に入るべからず」のあと、孟子はどのように語っているのか。

「尭舜(ぎょうしゅん)の道に入るべからず。故に徳の賊というなり。
孔子いわく、似て非なるものを憎む。雑草を憎むはその苗をみだるを恐るればなり。..言葉巧みを憎むはその信をみだるを恐るればなり。..紫を憎むはその朱をみだるを恐るればなり。郷原を憎むはその徳をみだるを恐るればなり」

社会秩序の強度というのは、価値というものをその社会の外ではなく、内に持つことから立ち現れるというこはありえる。郷原は、価値を自分の外に依存しているわけだから、大きい枠組みで見れば秩序のフリーライダーだというわけだろう。
故に、孔子は似て非なるものを憎む、だ。
論語 陽貨第十七 462 にこのようにある。

子日わく、紫の朱を奪うを悪(にく)む。鄭声(ていせい)の雅楽(ががく)を乱(みだ)るを悪む。利口(りこう)の邦家(ほうか)を覆(くつがえ)すを悪む。

孟子は、最後にいたって論語の言葉を重ねてきている。孟子の論理の根拠というのは、けっきょく論語の世界観にある。論語を強力に自分にひきつけることによって、新しい世界観を押し出そうということだろう。プラトンもその語り手はほとんどソクラテスだった。

「孟子」は実質的に最後、このように終わる。

「郷原を憎むはその徳をみだるを恐るればなり。君子は常の道、治まればすなわち庶民興る。庶民興れば、すなわち邪悪なし」

趣深いよね。

一読直感、奇妙な心理小説だと思った。裏表紙には、『一級のフー&ホワイダニット』という謳い文句が書かれていたけれど、どういうつもりなのか。フー&ホワイダニットという字面がゲシュタルト崩壊しそうだ。

キーテレビ局の優秀な女性編集者「遠藤瑤子」のところに、下っ端郵政官僚の麻生がある弁護士を殺したのではないか、という麻生の怪しい行動を隠し撮りしたテープ持参のたれ込みがあった。テープを持参した春名という男はこのように言う。

「遠藤さんだからこそ、このテープをお預けできたんです。どうか事件の真相をあぶりだしてください。証拠や客観的事実なんて、あなたには必要ないんです。視聴者が欲しいのは、あなたの疑惑であり、推理です。要するにあなたの心に芽生えたものに私たちは触れたいんです」

いきなり推理小説の枠組み自体を破壊するようなことを言っている。名探偵の推理であればなんでもいいというわけだ。
このテープを編集してゴールデンのニュース番組で流した。しかしこのテープはガセだった。麻生はひどい目にあう。妻には離婚されるし、旭川に左遷されるし。
テレビ局に苦情を言いに来た麻生の言葉を聴いて瑤子はこのように思う。

「彼の言葉に嘘はない。それは長年、犯罪者や、犯罪を行ったと疑惑をかけられた無実の人間のインタビュー映像を編集してきたものの、鍛え抜かれた観察眼だ」
「しかし謝罪はしたくない。だけど謎を突き止めてやることはできる」

ひでーなおい。だいじょうぶかよ名探偵。
そのうち、テープを持ち込んできた春名が死体で発見される。瑤子は直感するんだね、弁護士と春名を殺したのは麻生だと。
ん? 麻生を無実だとした鍛え抜かれた観察眼はどこいっちゃったんだ?
この女はダメだ。名探偵ではない。かといって隠れた名探偵が現れそうにもない。それで結局どうなったかというと(これはネタバレと言えるのかどうか)、弁護士と春名という男を殺した犯人は分からないまま。

麻生は瑤子をストーカーするようになる。それに気づいた瑤子は麻生を逆ストーカーするようになる。いうなれば、冴えないオジサンと男っ気のないオバサンとの狂気の愛憎みたいなことになる。じつはこのあたりはおもしろい。
この麻生という冴えないオジサンがなかなか語ってくれる。愛憎が高まって瑤子にこのようにいう。

「俺に言わせりゃ、あんたがつくっている映像なんて、ただあんたのハサミで切りはりされた、仮説っていうオモチャなんだよ」

これに切れて、瑤子は麻生を崖から突き落として殺してしまう。
この犯罪はすぐばれそうになってしまうのだけれど、瑤子は警察に捕まる間に自分が生まれてからいかに麻生を殺すかにいたるドキュメンタリー映像を作ってゴールデンのニュース番組で流す。
ちょっと考えられない。そのような自己弁護は公共の電波でやらずに自分の裁判でやるべきだろう。

この小説、整合性に関しては一見バラバラだ。テレビの映像編集者の瑤子の傲慢さというのは狂気のレベルだ。しかしこの小説が書かれたのが20年以上前ということを考えると、思い出すこともある。
かつてテレビってすごい力があったよね。かつてのテレビの影響力を体感していないと、この小説の整合性の可能性というのは分からないのではないだろうか。「破線のマリス」における整合性の根拠というのは、テレビの持っていた影響力であって、それが失われつつある今、この小説が持つ価値というのは、急速に減退しているだろう。
若い人はテレビなんてもうあまり見ないのではないかな。私も10年ほど見ていない、家にテレビを置いていない。子供は何の不満もなくYouTubeを見ている。若い人がこの小説を読んでも根本的に理解不能だろう。

現代においてヨーロッパは進んでいて日本は遅れているなんて考えている人はあまりいないと思う。でも30年ぐらい前までは、ヨーロッパ進んでるイメージというのはあった。ヨーロッパ仕込の文学や哲学がもてはやされて、知識人はすぐパリとかに行っちゃったりする。今から考えると、そんなパリモードエモーション(私の造語)が許されるのは岸恵子ぐらいなものだろう。

戦後の何十年か、日本はヨーロッパを仰ぎ見ていた。しかしそれは戦争に負けた自信喪失の結果であって、誠実に比較して東洋の思想が西洋思想より劣っているというものではない。戦前の日本人というのは、この辺のところをかなり正確に理解していたと思う。

戦後のヨーロッパ中心史観で戦前の日本思想を判断するというのは、トータルで考えてちょっと失礼だと思う。この本における色川大吉の歴史観というのは、丸山真男などよりはまだマシなのだけれど、失礼具合というのがいくらかある。
色川大吉は、明治10年代の自由民権運動が自由と民主主義につながっていかなかったことに不満を持っている。

日本の弱さみたいな。

しかしそれはムリでしょう。19世紀のヨーロッパが民主主義だと思ったら大間違いだ。例えばフランスで男女対等の完全普通選挙法が制定されたのは1945年で、これは日本と同じだ。女性に選挙権の与えられない政治体制というのは民主主義とはいえないでしょう? 

では、戦前の日本の、さらに言えば第二次大戦前のヨーロッパの政治体制とは民主主義ではなくなんだったのかというと、ぶっちゃけて言えば金持ち支配体制ということになる。金持ちが貴族風を吹かせていたということ。世界的に第一次世界大戦で金持ち支配体制の世界観はグラつき、第二次世界大戦後に完全に崩壊した。
だからありもしないヨーロッパ自由思想で明治の日本思想を断罪するというのはちょっとどうかと思う。徳富蘇峰はファッショで北村透谷は民主主義だという論理は、意味がないだろう。戦前の日本思想がヨーロッパより遅れていると言う判断は、ヨーロッパの金持ちの意識レベルを日本の貧乏人が持てないのは日本思想の脆弱さ故だということになって、これは馬鹿が馬鹿を言っているレベルだろう。

さらに考えれば、しょうがないということもある。
とにかく日本は頑張りすぎた。西洋文明を相手に日本一国で対抗するというのはそもそもムリなんだよ。中国は何してるんだという話だ。眠れる獅子は19世紀半ばからずっと寝ていた。21世紀になって眠れる獅子はやっと目覚めた。図体がでかいだけあってトロいところがある。日本は疲れたから、中国、あとは頼むよという、そういうところに落ち着くと思うけれど。

精神史とは雰囲気史みたいなもので、明治精神史というと明治の雰囲気史ということになるだろう。

明治雰囲気史で欠かせない人物といえば北村透谷だろう。しかし北村透谷を直接扱うというのは難しい。なんせ25歳で自殺した天才思想家だから。まず透谷の周辺から攻めていこうという。
北村透谷の妻を石坂ミナという。この女性の兄に石坂公歴(まさつぐ)という人物がいる。北村透谷と石坂公歴は同じ明治元年生まれだった。もちろん親交があった。二人で旅行などもしている。

北村透谷は没落士族の息子、石坂公歴は三多摩地方の豪農の息子だった。
石坂公歴17歳の時に書かれた彼の人生の予定表みたいなものが残されている。例えば、

「二年間政治学の実際上と学問上とを比較し、社会の動静を視察し、自己の主張せる大主義を論述し、これを印行して広く社会に問う」

などというものだ。上昇志向の強いできる男という印象だ。しかし東京帝国大学を二度受けるのだけれど失敗。 明治10年代は自由民権運動の時代なんだけれども、最後は自由党左派が矯激化して大阪事件などを起こして自滅する。石坂公歴(まさつぐ)は、この大阪事件に巻き込まれてアメリカに逃亡する。
石坂公歴なる人物は非常に立身出世欲が強い。色川大吉は、これは彼が豪農層出身だからではないかと推測している。これに対して北村透谷は立身に対して淡白だ。これは彼が士族層出身だからではないかという。

これは豪農層が貪欲だったというわけではない。歴史的に豪農とは、士族に対する窓口になりながら村をまとめるという二面的な役割を担っていた。しかし明治維新によって、豪農は多くの義務から解放された。自由ではあるけれど難しい立場でもある。新しい時代だと飛び出してはみたものの、結局豪農は維新政府の指導に従い村を統制するという昔と同じ場所に戻りがちだったんだろう。
石坂公歴はちょっと飛び出しすぎた。

石坂公歴は、短命だった北村透谷とは異なり、アメリカを放浪しながらなんと昭和18年まで生きた。昭和13年、彼は自分の妹、すなわち北村透谷の妻にあてたアメリカからの手紙の最後にこのように書いた。

「我が国の外交は今日現時に至りて始めて自主的外交となり、真に一大国の姿を確保することとなり、我が国民は衷心の快とするところ、維新以来の大国これを現実し来たりて歓喜雀躍を禁ずるあたわず」

本当に、豪農の魂百までだね。

北村透谷の親友に大矢正夫という人物がいる。大矢正夫は実際に大阪事件に参加して捕まり懲役6年を食らっている。
大阪事件の説明を簡単にすると、明治18年、自由民権運動末期に自由党左派が朝鮮の政変に介入する資金のために各地で強盗を行ったというもの。普通に考えればろくでもない事件だ。
北村透谷は大矢正夫に大阪事件への参加を懇願されたがギリギリのところで拒否している。

大矢正夫は釈放後大陸浪人となり、明治28年 閔妃(びんひ)暗殺事件に関与している。
閔妃暗殺事件とは、李氏朝鮮の第26代国王・高宗の王妃であった閔妃が、宮に乱入した日本軍守備隊、領事館警察官、日本人壮志らに暗殺された事件だ。事件の背景というのはあったのだろうけれど、これも現代の感覚からすればちょっと考えられないレベルの事件だ。

明治18年に大阪事件に参加してアンチ権力という硬骨を示したはずの大矢正夫は、10年後には政府の走狗になっているという。
彼の気持ちも分からなくはない。立身への渇望があって、それがあるときには反権力であり、またあるときには権力への同化となるのだろう。彼の渇望は時代によって与えられたという面もあるだろう。

石坂公歴(まさつぐ)や大矢正夫に象徴されるような立身出世と国権主義、北村透谷に代表されるような細民土着と理想主義。明治10年代の自由民権運動時代に存在したこれら思想の流れは、時代が変わっても伏流していたと思う。昭和に入り「国家の総力戦体制」という枠組みが与えられて、その伏流は、三月事件、十月事件、五一五事件、二二六事件となって時代の眼前に現れたのだろう。

統合失調症。
統合が失調してしまうのだから大変だ。しかし、何の統合がどのように失調するのだろうか。

近代世界は個人の人格の一体性を前提として社会が構成されている。
プラトンは「正義とは何か」という問に「それは一体性」であると答えた。個人の正義は個人の一体性に、国家の正義は国家の一体性にある、とした。西洋近代は明らかにこのプラトンの思想を受け継いでいる。

この一体性という考えも微妙で、そもそも人間の人格におけるおける一体性とは何なのかというのはある。「統合失調症あるいは精神分裂病 精神医学の虚実」第8回講義では、自我というものを主体と自己に分けて考えている。主体というのは「今ある自分」で、自己というのは「あるべき自分」という程度の意味だと思う。

「今ある自分」と「あるべき自分」が分裂するというのは異常でもなんでもない、よくあることだ。例えば葬式とかに行って神妙な顔をして座っていたとする。葬式なんてクソくだらないなんて「本当の自分」は思っていたりするけれども、それを表現するわけにもいかない。「あるべき自分」を演じながらもだんだんと役になりきってしまって、葬式なんてクソくだらないと悪態ついていた「本当の自分」はろくでもないな、などと主体性の座が移ったりする。

自分の中の主体と自己が、まあなんと言うか、社会の中でよろしくやっていくために互いに互いを高めていってくれればそれはそれでいい、何の問題もない。
「あるべき自分」と「今ある自分」との差が大きくなってくると問題が起こってくる。「あるべき自分」になりきれない「今ある自分」は恥ずかしいみたいなことになるだろう。自我の分裂ではあるが、まあまあここまでは許容範囲だろう。

ところが「あるべき自分」に意識の主座が移ってくるとちょっとヤバイ。ダメな自分、嫌な過去を意識の向こう側に放逐するようになる。こうなると個人の感情の循環がうまく回らなくなってくる。
本文にこのようにある。

「私の見解では、衝動的なもの-欲望-情動―感情-情緒-気分-言論、このくらいの順番で、資源的で原始的なエネルギーからソフィスティケートされたものに変遍、発達すると考えています」

これはあるなって思う。人間の精神というのは階層構造になっていて、最下部から発生したエネルギーを消費、精製しながら上部の機構に受け渡していくシステムだ、というわけだ。このシステムがうまく循環していかないと問題が起こったりするわけだ。

思っていることをうまく言葉で表現できないとちょっともやもやする。これは、気分-言論の関係性がうまくいっていないからだろう。これはよくあることでたいした問題ではない。しかしもっと階層構造下部で不具合が発生するとどうだろうか?
最下部から発生したエネルギーを消化できずにシステムごと ドカーン ということもあるだろう。

統合失調症という病気は、まず幻聴や幻視を伴う「急性期」と呼ばれる時期を経て、活動低下や無表情を伴う陰性症状に移行するのがメジャーだという。したがって、人間精神の階層構造のかなり下部のほうの不調なのではないだろうか。
意思や意識というものは、精神構造の深いところまでは届かない。だから統合失調症は不思議な病気と判断されて一般に理解されにくいというのはあるだろう。

しかしなー、統合失調症に対しての理解の難しさというのは、本当にしょうがないものなのだろうか。私たちは無条件に何らかの前提を受け入れて、統合失調症を簡単に判断してしまっているということはないだろうか。

現代社会においては、自由意志とか意識というものが過大に評価されているだろう。腕を曲げようと思って自由意志を発動したら腕が曲がったと。自由意志によってまさに今腕を曲げたと。この行動現象は完全無欠の真理であると。
本当に?
リベの論文によると、意思を持っての行動の場合、実際の行動の0.2秒前に意思の自覚を示す脳内シナプスの発火が認められる。ここまではいいのだけれど、さらにその0.3秒前に意思の自覚に向けた脳内シナプスの発火が認められるという。意思の発動の前に何らかの準備段階があるらしい。
意思というのは自由意志ではなく不自由意志だということになる。だってそうでしょう? 意思の発現の前に0.3秒も何らかの助走がある。意思は行動の始原ではない。
でもこれはよく考えたら当たり前だよね。意思によってシナプスが発火するんだったら、そこに サイコキネシスがあるということになってしまう。それはない。サイコキネシスはない。

あらゆる意思には必ず何らかの準備がなされている。この準備がなければ意思は発動できない。準備が不十分だと意思の発動の結果も満足できるものではないだろう。さらに言えば、この意思世界における世界感覚というものは、何らかの生態的システムによって用意されていることになる。この意識以前の生態的世界形成システムの不具合が統合失調症だろう。

後一つ、精神病者の犯罪に対する刑罰が軽減されることについて。
シナプスの発火-意思の発現-意思の実行、という流れの中で、実行拒否の能力発現というのはどこにあるのかというと、意思の発現-意思の実行の0.2秒の間にある。意思の発現以前の領域における病気が統合失調症なんだから、統合失調症患者にも平均的な犯罪実行拒否の能力はあるだろう。この犯罪実行拒否の能力こそが責任能力ということではないだろうか。ならば精神病者の犯罪に対する刑罰は軽減されるべきではないということになる。
まあでもそのためには、この社会における自由意志と意識存在にたいする過剰な価値の付与を転換する必要がある。自由意志の重視と刑法39条「心神喪失」犯罪は強力にリンクしている。

そして、統合失調症とは何の統合がどのように失調するのかについて。
本書の最後にこのようにある。

「ヒトにとっての現実とは、運動行為を脳内で準備する時に発生する「世界の絵」である。その準備活動に従事する責任部位は大脳皮質前頭前野の四六野を中心とする部位で、準備計画作成のために、この部位が脳内の他部位を強力に統制して、世界の意味づけやそこで行おうとしている行動の持つ意味などの重要な情報をメモリーから調達する。
行動計画を作成する機能が統合機能であり、これが不適切だったりバラバラであったりすると、合理的行動はできなくなる。その統合不全状態を特徴とする病気という意味では精神分裂病を統合失調症と呼ぶことに、大きな誤りはない」

なるほど。

福沢は「文明論之概略」の中で英雄史観というものを完全に拒否している。時代の変化というのは一人の天才によって起こされるものではなく、変化の胎動は時の中に伏流していて、ある閾値を越えると時代の変動として眼前に現れるという。歴史上の人物とは時代の変化の象徴に過ぎないという。

骨太の論理だと思う。
私たちはつい簡単に考えてしまう。あの時ああすれば今より幸せだったのか? みたいに。可能性を限定して考えることは楽なんだよね。同様に、歴史の変化を天才個人に還元できれば楽ちんだ。明治維新は坂本竜馬とか、江戸幕府は徳川家康とか、帝政ローマはカエサルとか、後漢帝国は光武帝とか、いくらでも還元できる。陰謀史観もこの延長上にある。太平洋戦争はルーズベルトの陰謀だとか、独ソ戦はスターリンの陰謀だとか。

福沢諭吉はこのような単純な歴史観を拒否する。歴史の変化とは個人の能力で起こるものではなく人間精神の集合の流れとしての「時勢」によるという。
時勢などというあいまいなもので歴史観を形成しようという。石原莞爾の「最終戦総論」には同様な認識があった。しかし「文明論の概略」は明治一桁年の構想だから、まさに天才福沢の真骨頂だ。

時勢により明治維新が起こった。新生日本は文明の海に漕ぎ出した。福沢は文明の進歩において大事なのは「自由の気風」だという。
福沢の言う自由とは例えば、日本は中国より自由が多かった、なぜなら中国は皇帝という一つの権力で日本は天皇と幕府という二つの権力があって、日本は一つの権力に惑溺することがなかったからというものだ。すなわち「自由の気風」の自由とは、心の余裕フレキシビリティーみたいなものだ。

私が思うのは、福沢の言説の根幹というのは惑溺を拒否するところの彼の「心の余裕」にあるということ。福沢の心の余裕とはいったい何に起因しているのだろうか?

福沢の有名な言葉に、

一身(いっしん)にして二生(にせい)を経(ふ)るが如く、 一人(いちにん)にして両身(りようしん)あるが如し。

というのがある。簡単に言うと、私は二つの世界を生きたみたいだ、となる。
人間は普通一つの世界しか生きない。一つの世界には同じ雰囲気同じ匂いが継続している。一つの世界にしか生きない者は同じ雰囲気しか知らないわけで、なかなか別の世界の雰囲気まで体感することはできない。
太平洋戦争が何故起こったのか不思議に思ったことはないだろうか? 太平洋戦争の原因が現代人によく理解できないのは、私たちが戦前の雰囲気をリアルに体感できなくなっているからだ。私たちは現代という時代の雰囲気の中に閉じ込められている。心が閉じ込められている人間は、その枠内でしか心のフレキシビリティーを発揮することはできない。

雰囲気というものは、じつは人間に強力な力を及ぼしている。自分の家族が同一人物の家族であると認識できるのは、合理的推論の結果などというものではなく同じ「雰囲気」が継続しているからだ。雰囲気を持つことができず、親しいはずの人に親近感を持つことができないという精神病もある。

時代の雰囲気というのも同じで、それは激しく私たちをこの世界に限定している。ところが福沢は江戸と明治の二つの時代を生きて二つの時代の雰囲気を知っている。これが「一身にして二生を経るが如し」の意味だろう。このような人は心の自由度というのが拡大して、能力以上の事を成し遂げたりする。

そんなことを言ったら福沢と同じ年代の日本人はすべからく能力以上の事をやらかしたということになるのではないかという意見もあるだろう。
実はその通り。
明治維新で20代だった人たちは、時代に「自由の気風」を付与されて日本を持ち上げる役割を担った。同じことが太平洋戦争で20代だった人たちにも当てはまると思う。思い出せる人は、団塊の世代の親たちを思い出してあげたらいい。

福沢の思想の力の源泉というのは、時代を相対化できるほどの彼固有の「心の余裕」にある。そもそも福沢の知的レベル言語能力はきわめて高い。これがさらに時代に押し上げられているわけだから、一つの世界しか知らない凡人が福沢の具体的な論理をどこまで真に受けていいのか難しいところがある。

福沢は幕末、緒方洪庵の適塾にいた。仲間とよく議論をしたという。だいたい福沢が勝つらしいのだけれど、議論が決着したら立場を入れ替えてもう一度議論をするという。これもだいたい福沢が勝つという。
ちょっと考えられない。福沢にとっては議論世界でのフレキシビリティーこそが問題だったということだろう。

福沢にとって「心の余裕」こそが根拠であるなら、福沢の言説集合に普通に理解できる体系みたいなものは存在しないのではないだろうか。「心の余裕」をてこにこの世界を自由自在に生きるというのが福沢の人生観であって、凡人にはとても真似できないようなある種の理想だよね。

果して以て人に異なるあるか。孟子曰く、何を以て人に異ならんや。堯舜も人と同じきのみ

「孟子」のなかに以上のような言葉があるのだけれど、福沢も孟子と同じ境地にあると思う。

内容としては、北海道でパンでミックが起きてそれに立ち向かうマッチョな自衛隊員目線のパニック物だった。

全体の話の整合性としてはどうかと思わせる部分も多かったけれども、パニック物だし細かいところにこだわって読むほどの事もないだろう。読ませる筆力というのはあった。
気になったのは、パンでミックにあたって日本政府首脳の対応のグズグズさかげんの描写だ。

主人公の自衛隊員と総理ならびに関連大臣との対話場面も多いのだけれど、主人公の自衛隊員が感情むき出しで大臣にくってかかっている。総理の事を馬鹿だ豚だとかひどい。小説の設定としては主人公の自衛隊員が真理を握っているから、真理を知らないヤツを豚呼ばわりというのもなくはないとは思うけれど、総理は小説の真理設定は知らないわけだしそこまで言わなくてもとは思う。
この小説の語り手は基本的に主人公の自衛隊員なのだけれど、総理ならびに関連大臣批判では、いったいこれ誰が語ってるの?作者が勝手に語り出してない? なんていう部分もあった。

作者にこの小説を書かせたエネルギーというのは、けっきょく福島原発のあの事故および政府の事故対応についての思いということだろう。
気持ちは分からなくもない。福島原発の文字通りの爆発を表現して当時の枝野官房長官が「爆発的事象」とテレビで言ったときにはこの世界の終わり感ははんぱなかった。

映画の「シンゴジラ」や「君の名は」が異常な大ヒットを飛ばしたのは、福島原発の事故がこれらの映画世界にリアリティーを与えたというがあると思う。この「生存者ゼロ」という小説が「このミス」大賞を受賞したのも同じ流れだろう。

そうだとするなら、主人公の自衛隊員および作者の政府に対する怒りの言葉も、なんだかちょっと切ないような気持ちにさせる。

東野圭吾は量産作家で作品すべてが当たりというものではないと思うけれど、この「赤い指」は当たりの部類だろう。

中学3年の一人息子が7歳の女の子を自宅で殺して、それを両親が隠そうとして隠しきれなくなると同居しているボケた夫の母親に罪をかぶってもらおうと画策して最後にばれてしまうという話だった。

東野圭吾のよさというのは、価値のバランス配分というのが絶妙なところだろう。
幼女を殺した中学3年生の母親というのは、20世紀の価値観からすれば一番非難しやすいところだと思う。この女性、一人息子は甘やかす、専業主婦なのに家事は手抜き、夫のボケた母親の面倒はみない、息子の殺人を真っ先に隠そうとすると全くみるべき所がない。にもかかわらずこの小説内では特別に非難されているわけでもない。
女性の解放とそれに対応すべき社会意識の未熟さの矛盾を勘案して、東野圭吾は彼女に厚めに価値を配分している。

そのワリを食っているのが中学3年の息子だ。そもそもコイツが殺しているのだからどうしようもないのだけれど、まだ15歳の犯罪なのだからコイツがいじけた理由の思い出話とかがあってもいいと思うのだけれど、そのようなものは一切ない。物心ついいたらダメ人間だったみたいな、戸塚ヨットスクールにでも入れるしかないみたいな感じだね。

この小説世界における価値配分の代行者が刑事の加賀ということになる。謎を解くだけではなく価値まで配分しようというのだからたいしたものだ。


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