magaminの雑記ブログ

2018年03月

中国の近世は宋に始まる。

近世とは何かというと、ルネッサンスだろう。古代復興というやつ。人間は徐々に進歩するものだと考えてしまうと、遅れた中世よりもさらに昔の古代というのは中世より遅れた世界だろうと推論してしまう。しかしこの推論は間違っている。古代世界というのは、一定レベルの一体性、合理性を体現していた。

あえて言うなら、この現代世界というのは、人類という種が造りだした文明の二周目ということになる。文明二周目を回るに当たり参考にするであろうことは一周目のあり方だろう。すなわちルネッサンスだ。

宋は西暦960年、趙匡胤(ちょう きょういん)によって建国された。

「虐殺器官」は近未来SFみたいな感じの小説。あらすじとしては、ジョン.ポールなる人物が後進諸国で内戦を煽っているということで、アメリカがジョン.ポール暗殺部隊を送り込むという話。その暗殺部隊の一人が主人公。

普通に読むと、まあなんというか西洋近代批判みたいなことだろう。そのためにさまざまな思想が動員されているっぽい。例えば、

「仕事だから。19世紀の夜明けからこのかた、仕事だから仕方ないという言葉が虫も殺さぬ凡庸な人間達から、どれだけの残虐さを引き出すことに成功したか、君は知っているのかね。資本主義を生み出したのは、仕事に打ち込み貯蓄を良しとするプロテスタンティズムだ。つまり仕事とは宗教なのだよ」

これはウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」からのインスピレーションだろう。それもかなりうまく要約しているよなーと感心した。
このような西洋思想をつないで、この小説はトータルで近代の枠組み批判みたいなことになっている。どのような枠組みかというと、これを言ってしまうとネタバレになってしまう。

少し視点をずらそう。
怪物ジョン.ポールを狙うアメリカ暗殺部隊のリーダー、クラヴィス.シェパードというのが主人公なのだけれど、こいつちょっとマザコンっぽい。
同情する余地もある。母親が事故で脳死状態になって、主人公は母親の生命維持装置を止める決断をした。これが彼のトラウマになって、自分は母親を殺したのではないかという罪の意識に苛まれる。そしてジョン.ポールの情婦を好きになって、彼女に自分の母親殺しという罪を裁くもしくは赦してもらおうと思う。標的であるジョン.ポールの、その情婦に自分の母親を投影しているわけだ。

このようなちょっと心理的に弱い主人公に読者は同情する。作者もそれを期待している。男はいつまでもマザコンだという。

そんなわけないだろう。母親が死んだ時点でマザコンメンタルは終了だ。
私の母親は20年前に死んだ。実家の風呂場で心筋梗塞を発症したらしい。時は流れて、私も結婚して子供が4人いる。子供は妻の事を、ママー、母さーん、と日々呼んでいる。私もつい、

「ママー、今日のご飯なにー」

などと調子に乗って言ってみる。すると妻、いわく、

「私はあんたのママじゃないよ」

ここまでならいい。さらに続けてこのようにいう。

「あんたのママは風呂場で浮いてたでしょ」

これをマジでいうから。こんなブラックジョーク、創作できないから。厳しい現実生活の中で、マザコンメンタルなんて脆いものですよ。

作者がマザコン魂に訴えようとしても、なかなかついて行けないという。


関連記事/ 
底辺会社の現実1 底辺会社の現実2 底辺会社の現実3 底辺会社の現実4
底辺会社の現実5 底辺会社の現実6 底辺会社の現実7.......底辺会社の現実ラスト




かに!カニ!蟹!<美味いカニの専門店> カニの浜海道




21世紀に入り中国の発展はめざましい。さらに言えば、もうめざましいというレベルではなく、世界はアメリカと中国との一騎打ちの様相を呈してきた。

だから中国のことを知るのも悪くないと思う。
歴史を、古代、中世、近代と分けた場合、中国の近代は宋に始まる。

不思議に思う人も多いと思う。宋は西暦960年、趙匡胤によって建国された。960年だからね。ヨーロッパの近代がルネッサンスに始まるとするなら、ヨーロッパ近代の始まりは14世紀半ばだろう。中国の近代開始は、ヨーロッパより400年遡ることになる。
普通ありえないと思う。進んだヨーロッパ様より遅れた中国が400年も前に近代に突入していたなんて。

しかしそもそも近代とは何だろうか? 宮崎市定は近代という言葉は使わずに近世と言っている。そして、ヨーロッパの産業革命以降を最近世(近代)と言っている。しかし近年の世界システム論などの議論によって、産業革命の地位というのは低下している。もう産業革命によって時代を区分する必要はないだろう。近世と最近世をあわせて近代といって問題ないだろう。

内藤湖南によると、近代とは「中世的な貴族の没落に伴い、庶民階級の興隆という命題」で捉えられるという。
これはありえる。
よく近代というのは封建制の後に来るものだという意見があるのだけれど、これはヨーロッパにおいて封建制の後に近代が訪れたということから推論されたもので、このようなものは根拠のないヨーロッパ中心史観であって、現代においては論ずるに足らない。
貴族の没落と絶対王権の確立とは並行的現象であって、ヨーロッパにおいてルネッサンス以降絶対王権が確立されたのと、中国宋王朝の絶対王権の確立というのは、宮崎市定の語るように、地域と時代は異なるけれども、歴史の平行現象と考えて問題ないと思う。

歴史というのは何百年ものターンで動くわけで、200年ほど停滞していた中国が21世紀になって目覚めたとして、これは別に不思議でもなんでもない。歴史から考えて、中国に底力があるだろうということは、日本が一番よく知っているだろう。

小川洋子という小説家は読んだことがなかった。
たぶん。
でも記憶って曖昧だから、はっきりとは分からない。よく子供たちに、「その話は聞いた」と言われる。でもしょうがないよね、忘れちゃうんだから。何回でも聞いてくれてもいいじゃん、と思う。

「博士の愛した数式」は、かつての交通事故で80分しか記憶が持続しなくなった元数学教授をめぐる話だった。語り手は、その元数学教授宅に送り込まれた家政婦。

この元数学教授「博士」は、記憶障害以前にコミュニケーション障害、さらにいえば発達障害だろう。記憶障害になった結果、発達障害になるなんてことはない。博士は最初から発達障害で、80分しか記憶が持続しないという記憶障害の方は、小説世界全体を支配するところの設定みたいなものだろう。

80分しか記憶が持続しない世界とは何を意味するかというと、積み重ねがない、進歩がないということだろう。そのような世界が成立するのなら、そこは静かで美しくてつまらない場所だろう。この小説では、進歩がない世界を数学という第一級の学問をてこに、小説世界の整合性を整えてうまくやっているけれども、現実はなかなかそうはいかない。

私、子供のころ発達障害だったと思う。今から思い出しても、ぼんやりして活力のない子供だった。はっきりしたことは分かるのだけれども、曖昧なことは分からないんだよね。世の中は曖昧なことだらけで、私は曖昧さに恐怖するオドオドした子供だった。曖昧な世界を克服しようとして、文学にはまりこんだ。

年をとるうちにだんだん曖昧な世界に対する恐怖感がなくなってきて、35歳ぐらいでかつての暗い世界を完全に克服した。妻とは大学時代に付き合い始めてそのまま結婚したのだけれど、その妻が何年か前に、

「あんた最近変わったよね。私はオドオドしたmagamin君が好きだったのに」

などと言っていた。本当に失礼千万なんだよね。

「博士の愛した数式」という小説は、不器用な博士がいかに救われるかという話だと私は理解したけれども、その視点ではかなりうまく出来た小説だと思った。昔の事まで思い出したぐらいだし。

ツァラトゥストラはちょいちょい歌ったり踊ったりする。さらにこのようなことまで言う。

「戦争や祭りを喜ばなければならない。陰気な人間や、夢見るハンスはいらない。どんなに困難なことにも、自分の祭りのように喜んで取り組まなければならない」

ツァラトゥストラは祭り好きなんだろう。

ニーチェはあらゆる価値観の相対化というものを呼号したけれども、このことと祭りというのは関係性がある。
祭りにおいては、既存の価値観というのは軽くなってしまう。秩序と祝祭とは相容れない。近代以降、秩序体制が強化された日本において祭りは強力に管理されている。何かのきっかけで渋谷のスクランブル交差点に若者が集まったりすると、すかさず大量の警官が動員される。
江戸末期の、ええじゃないか、も祭りが止まらなくなったものだろう。明治政府が最初に行った施政は祭りの規制だった。

ニーチェは価値観を相対化した結果祭りに言及したというより、ニーチェ自身がそもそも祭り好きなんじゃないのかな。永遠の祭りを期待した結果、あらゆる価値観の相対化を発見したのではないだろうか。
ツァラトゥストラはキリスト教を辛気臭いといってさんざん攻撃しているわけで、これはよっぽどの祭り好きだと推測される。

ニーチェの思想に永劫回帰というのがある。長い時間の枠組みの中では、同じ瞬間が繰り返されるであろうという。一度でも繰り返されれば、永遠の時間の中で何度でもその瞬間は繰り返されるだろうという。
終わらない祭りの論理だね。

近代における時間の観念というのは、永遠の過去もしくは過去のある始点から、永遠の未来もしくは未来のある終点まで、時間が一直線に続くというものだ。ビッグバン以前の宇宙はどうなっていたのかという疑問があるとして、私たちはこれを当然の疑問だと考える。しかしビッグバンという想定自体が、時間は一直線に続くはずだという想定の結果ではないだろうか。そしてさらにビッグバン以前という観念は、時間は一直線に続くはずだという想定の結果ではないだろうか。

ニーチェはこのような近代的時間観念のアンチテーゼとして、永劫回帰というものを提唱したのではないかと思う。
時間感覚というのは、世界観というものの基本観念であって、ニーチェは近代的世界観の基本観念である直線的時間観念というものを相対化しようとして、永劫回帰という時間観念をぶっこんできたのだと思う。

終わらない祭り、永遠に続く祝祭、そういう世界もなくはないと思う。新しい世界観には新しい時間感覚が必要だということだろう。

ツァラトゥストラはちょいちょい歌ったり踊ったりする。さらにこのようなことまで言う。

「戦争や祭りを喜ばなければならない。陰気な人間や、夢見るハンスはいらない。どんなに困難なことにも、自分の祭りのように喜んで取り組まなければならない」

ツァラトゥストラは祭り好きなんだろう。

ニーチェはあらゆる価値観の相対化というものを呼号したけれども、このことと祭りというのは関係性がある。
祭りにおいては、既存の価値観というのは軽くなってしまう。近代以降、日本において祭りは強力に管理されている。何かのきっかけで渋谷のスクランブル交差点に若者が集まったりすると、すかさず大量の警官が動員される。
江戸末期の、ええじゃないか、も祭りが止まらなくなったものだろう。明治政府が最初に行った施政は祭りの規制だった。

ニーチェは価値観を相対化した結果祭りに言及したというより、ニーチェ自身がそもそも祭り好きなんじゃないのかな。永遠の祭りを期待した結果、あらゆる価値観の相対化を発見したのではないだろうか。
ツァラトゥストラはキリスト教を辛気臭いといってさんざん攻撃しているわけで、これはよっぽどの祭り好きだと推測される。

3部まで読んだけれども、どうもピンとこない。

ニーチェの「善悪の彼岸」とか「権力への意志」をすでに読んでいるので、ニーチェが「ツァラトゥストラ」で言おうとしていることは分からないではないけれど、「ツァラトゥストラ」だけ読んでどうだというものでもないだろう。

ツァラトゥストラは夢を見た。口から入ろうとした蛇を噛み切るという夢。
おそらく何らかの意味はあるのだろうが、それを読者がいちいち夢分析しなくてはならないものなのだろうか。

「権力への意思」の中で一番かっこよかったニーチェの言葉、「プラトンごときが」というやつ。ニーチェのプラトンに対する敵意というはすばらしかった。「ツァラトゥストラ」にそういうの、ないような。
ツァラトゥストラが時々歌う変な歌が、案外プラトン批判だったりするのかな。

ダメだ、上巻を読んだけれども全然ピンとこない。

だいたい神が死んだとか言われてもなんとも思わない。髪が死んだと言われたらドキッとするけど。
ヨーロッパにおけるキリスト教というのは、脆弱な観念体系の社会秩序を背後から支えるためのものであって、なしで済ませられるのならそれに越したことはないという程度のものだと思う。日本はそんな神なしで今までやってこれたのだから、それは悪いことではないだろう。

明治国家では天皇が現人神みたいになっていたけれども、あれは社会的に立場のある人についての話であって、一般人にとってはたいして意味はなかった。坂口安吾は堕落論でそのようなことを言っていた。

日本語訳のツァラトゥストラを読んで、神が死んだとかいわれて、あっそう、としか思えないのもしょうがない。ヨーロッパ人にとって神が失われたら、秩序の底が抜けるような恐怖を感じるかもしれないが、ここは日本だし。

光文社文庫でのツァラトゥストラでございます。

読みやすーい。すごく口語。
30年ほど前高校の時にに岩波文庫の「ツァラトゥストラかく語りき」を読んだけれども、ほとんど歯がたたなかった記憶がある。この光文社文庫版が当時あったなら、さすがに読むだけは読めたのではないだろうか。

これを読んでみて思うのだけれど、散文で語るツァラトゥストラの小話が続くと、分かるところだけつなぎ合わせて全体を理解すればいいみたいなことになる。ニーチェの場合は、これは危ない感じがする。
本文にこのような微妙な表現がある。

「そのうち君は、自分の高さを見ようとしなくなり、自分の低さをあまりにも近くで見るだろう。君の気高ささえもが幽霊みたいに、君を怖がらせるだろう。そのうち君は、全部まちがっているんだ!、と叫ぶだろう」

高さ、低さ、気高さについて、自分の勝手な思い込みを当てはめたとしても、この文章は成り立つ。成り立つがゆえに分かりやすい。
ツァラトゥストラ、分かりやすいところをつなげていったのではダメだね。分かり難いところをつないで、ゴリゴリやっていったほうがいいだろう。  五夜まで続く予定。

乙一17歳のデビュー作だという。17歳でこれだけのものが書けたなら、たいしたものだと思う。

語り手の「わたし」が死んで、小5の健と小3の弥生の兄弟が「わたし」の死体をどうやって隠すかという話だった。

死んだ「わたし」というのが語り手だというのがちょっと面白い。近代小説の本質は、語り手の三人称客観形式にある。日本文学においては、島崎藤村あたりが語り手の三人称客観形式の確立者らしい。
死んだ「わたし」が語り手だというのは、だから私小説と三人称客観形式との中間みたいなものだろう。甘えた感じの私小説形式と殺伐とした三人称客観形式との中間の語り口は、なんだかちょっと安心するところがある。

ミステリーとしても、この小説はうまく出来ていると思う。細かい伏線までかなり回収しているだろう。大きい伏線については読んでもらうとして、小さい伏線だと、村でゲートボールが流行っているとか、倉庫の扉が開きにくかったとか、そういうのまで回収して、話が引き締まる感じだね。

小学5年の健という少年は興味深い。妹の弥生を引っ張って、「わたし」の死体を隠そうと努力するのだけれど、そもそも健に「わたし」の死体を隠さなければならない必然性というものはない。確かに「わたし」は弥生のちょっとした悪意で死んでしまったが、健が殺したわけではない。妹のことがとりわけ好きなのかというと、そのような健の感情表現は本文中にはない。健は、頭がよくて自分をしっかり持っていて、一般的道徳観念が欠如しているらしい少年として、「わたし」によって語られているだけだ。

健という少年の自覚的意思、すなわち強力な自己同一性が、この小説の整合性の根拠になっている。この兄弟がかなりの困難を乗り越えて後に読者に不審の念を抱かせないのは、健という少年の根拠不明の強力な自己同一性にある。

まあでもこういう人格形成というのは現実世界ではありえない。人間はそれほど強く作られていない。しかし最近の漫画とか、根拠不明の強力な自己同一性を備えた登場人物って目立つ気がする。「黒子のバスケ」もそんな感じだった。推理小説の名探偵が大量生産されているようなものか。

このページのトップヘ