magaminの雑記ブログ

2017年02月

ニーチェ「善悪の彼岸 44」にこのようにある。  

「自由精神の人と呼ばれている連中は、簡単に言えば、水平化するものの部類なのだ」
   
論理は明快だと思う。  

ここでいう自由精神というのは、当たり前なのだけれど近代自由主義における自由精神ということだ。ところがニーチェは、近代自由主義が規定するその枠組みそのものが気に入らない。気に入らない近代自由主義が規定する自由精神なるものは、「自由」精神ではないだろうというわけだ。  

ニーチェは、水平化も気に入らない。人間の権利の平等、すなわち水平化はそれ自体文明の進歩のように聞こえるのだけれど、人間の精神エネルギーの減退につながっているという。これは、一昔前の老人が、最近の若者はハングリー精神がないとよく言っていたけれど、まあ似たようなものだと思う。   

ニーチェの言説は、世界を相対化しようという観点は画期的なのだけれど、その後はどこまでも付き合えるというものではないという印象だ。  

もう一度、「自由精神の人と呼ばれている連中は、簡単に言えば、水平化するものの部類なのだ」という言説をよく考えてみる。 

そもそも近代世界における水平化の理念というは、そう簡単にひっくり返せるものではない。

日本の場合を考えてみる。明治維新から太平洋戦争にいたるまでの日本近代の歴史というのは、日本総体が国内や国外において「水平化」を求めた苦闘の時間だったと思う。このことは、ある一定以上の知識と知能のあるものなら理解してもらえるだろう。

文久3年生まれ、明治大正昭和を生き抜いた大言論人徳富蘇峰はこのように語る。
「大東亜戦争は世界水平運動の一波瀾であった。いってみれば、明治維新の大改革以来の、継続的発展であり、いわば明治維新の延長であるといっても差し支えない。いやしくも一通りの歴史眼を持っているものは、この戦争は全く世界の水平大運動の、連続的波動であったことを、看過することはできない。しかるにその水平運動は、運動の拙劣であったために、水平どころか、さらに従来の差別に比して、大なる差別を来したることは、所謂事志違うものというの外はない。即ち水平運動の仕損じである、失敗である」

日本の近代において、この水平化の理想に何千万という日本人の情念が詰まっている。ニーチェがいくら、水平化とは近代にのみ現れる特殊な価値観だと、その相対化を試みても、その理念に血を流した歴史がある国では、国民の連帯感の否定までは行きにくいと信じたい。  この世界における価値観というのは、どれも対等なのだろうか? それとも価値観には序列が、優劣が、あるのだろうか? 私はね、価値観に序列をつける世界のほうが生きる意味にあふれていると思う。今の日本には、まだ価値の相対化を拒否するようなエネルギーが残っているだろうか。太平洋戦争を戦うなんていうことを選んだあのエネルギーがまだ残っているだろうか。

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「善悪の彼岸」にいたって、ニーチェの論理は明快だ。言葉は率直だし、評論の対象は明確だし、哲学というのは、このように誠実でなくてはいけないと思う。

「善悪の彼岸 39」   

「真理のある部分の発見ということでは悪人や不幸者の方が有利であり、成功する確率がより大であるということは疑いの余地がない」   

これを控えめにいうと、「善とか悪とか、そのようなものは人間世界の道徳上の事であって、世界の真理というものとは実際何の関係もない。しかしあまりに現世の善悪にこだわりすぎると、とらわれすぎて世界の真理を理解する妨げにすらなるだろう」、このようになるだろう。  

これは、日本人にはきわめて分かりやすい逆説だと思う。  

親鸞の「悪人正機説」の「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」とはこのことだろう。   

体制に取り込まれた後の浄土真宗が、この親鸞の言葉を改変して、悪人は悪人の事ではないとか、ここでいう善悪とは道徳上のことではないとか、そのようなねじくれた解釈をするだろうことはありえる。しかし親鸞の「悪人正機説」は素直にそのまま読むべきだろう。そもそも、日本においては死ねば皆仏であるということは岩盤であって、悪人が死後も地獄の業火に焼かれるなんていうのは、おとぎ話レベルの話になってくる。  

ニーチェが「真理のある部分の発見ということでは悪人や不幸者の方が有利であり、成功する確率がより大であるということは疑いの余地がない」と言ったとき、西洋人はある種の衝撃を覚えるだろうが、日本人にとっては分かりやすい論理だろうと思う。    

そもそも親鸞には、衆上を救うという渾身の使命があっただけで、全く当たり前なのだけれど、近代市民社会の秩序を維持しようなんていう思惑なんてものはなかっただろう。

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善悪の彼岸 (新潮文庫) [ ニーチェ ]


ニーチェは「悦ばしき知識」で、様々な価値観を相対化しようとしている。
ニーチェの言葉にある「深淵をのぞき込む」とは、価値が相対化されて、人々がすがるものを失った有様を表現している。


ニーチェは、プラトンが傾けた西洋世界を相対化しようとしている。ここが分からないと、ニーチェを読んでもよく分からない。ニーチェにとっては、プラトンがラスボスだ。キリスト教というのは中ボスだ。ヘーゲルやカントレベルは小物扱いだね。   

まずもって、プラトンをひっくり返すというのは、並大抵ではない。プラトンの言説は正義と直結している。 

正義とはなんなのだろうか。ハトや犬の世界に正義などというものは存在しない。人間の全ての社会に正義が存在するというわけでもない。正義とは、強力な言説によって秩序付けられた世界に立ち現れ、その世界の秩序を強力に補強するところの、一つの観念なんだよね。正義と秩序は、プラトンの言説によって寄り合わされ2200年の時を越えて、西洋文明を強力に持ち上げてきた。正義、秩序、2200年、そしてプラトン。ニーチェはこれを相対化しようとしている。まずもってムリ、絶望的な戦いだよ。   

ニーチェの言葉の断片が、我々の耳にかっこよく響くというのはあると思う。
ニーチェの言葉はかっこいいのに、トータルとしてほとんどの人が理解できていないのは何故か? 

マックス・ヴェーバーは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という本の中で、このようにいう。   

「プロテスタントの言説がヨーロッパ社会の価値観を秩序付けて、ヨーロッパ社会は進歩史観の傾いた世界となった。プロテスタントの言説が失われても、ヨーロッパ社会の傾きは残り、さらにその傾き自体が再生産を始めた」  

このプロテスタントの言説という部分を、ヴェルナー.ゾンバルトに突っ込まれている。プロテスタントの言説だけではなく、ユダヤ人やキリスト教や、さらにいえば白人の遺伝的な優越性も西洋の躍進に貢献しているのではないか、というわけだ。こうなると議論が拡散してしまって、どうしようもない。そもそも、マックス・ヴェーバーのプロテスタントさらにいえば、カルヴァンの予定説が西洋世界を傾けた、という仮定に無理がある、力不足だ。はっきりいえば、マックス・ヴェーバーの想定する世界を傾けた強力な言説とは、その仮説の枠組みが正しいとするなら、まさにそれはプラトンしかありえない。いやしくも一定以上の知的レベルにある人間がプラトンを読めば、その迫力に感嘆せざるを得ないだろう。
それはニーチェ渾身の悲愴の言説が、かすかに私たちに届き、私たちの周りのくだらない事象をそれなりに相対化してくれるからだろう。

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昭和初期までは、世界は金本位制だった。金本位制というのは、列強各国の通貨を金にリンクさせるというもので、実質の固定相場制というものだ。当時のヘゲモニー国家はイギリスだった。イギリスはポンドを基軸通貨として、世界をコントロールするという方式をとらず、ポンドを金とリンクさせて、「列強の皆さん、皆さんの通貨も金と連動させてくださいね」という方式をとった。だんだんと金本位制に参加するというのが、列強の証となってくるわけだ。 金本位制という、本来は多くの選択肢の一つであるところの通貨制度に、徐々に価値が付与されてくる。経済学の論文等で、金本位制というものがどれほど立派なものであるのかということが喧伝されてくる。何十年かをかけて、そのような価値が金本位制に積み重ねられてくると、金本位制こそが守るべき価値であると考えられるようになってくる。  昭和初期から100年近くたった現在、世界は変動相場制だ。あの金本位制とは何だったのだろうかと私なりに考える。  結局、金本位制とは、列強のブルジョアが自分の資産を守るための方便だったということではないだろうか。ひどいインフレになって金融資産を失うことの恐怖心が、通貨と金をリンクさせるという、まあなんというか、世界の金融政策をある種の偏狭に押し込んだということだろう。  金本位制とは、金持ち達の必要性に迫られた結果の一つのあり方であって、それでなくてはならないという必然性の結果ではなかった。   今の金融体制も、同じようなことが言える可能性もあると思う。私達は今、変動相場制の世界の中にいるから、明確にこの世界の金融体制を相対化することは出来ない。かつて金本位制の世界に暮らした人々が、金本位制を相対化できなかったことと同じだ。  金融相場制に参加する各国の中央銀行は、金を操る権限を国家という枠の中で与えられているのだから、借金をほぼ永遠に先送りできるなどという権能が存在するなどという論理がある。このような論理を有名な学者なるものが、海外の権威なるものが補強しつつあるのだろう。  このような知の押し売りは、信じるに足らない。変動相場制における各国の債務の先送り理論というのは、もしかしたら誰かの必要性によって生じている可能性がある。  かつてのように。

ニーチェ、「悦ばしき知識 第5集」において本気を出してきた。すごい、プラトンや孟子レベルだろう。  

実際読んでみれば分かるのだけれど、ニーチェの言説というのは率直で、簡単なことを難しく語ろうなんていうひねたところは全くない。近代西洋哲学には、たいしたことでもないのをムリに難しく語るという伝統というのはある。日本も酷かった。   

象徴的なのはミッシェル.フーコーだと思う。フーコーの初期の言説というのは、正直、何を言っているのか理解できない。一転して、後期の言説は分かりやすい。

フーコーがやろうとしていたことは、現代の価値体系を相対化しようということだった。こう言うともし分けないのだけれど、初期のフーコーが目指したものは、現代の価値観を揺るがせて、その隙間に自分を押し込んで社会的によろしくやろうということが疑われる。

これの酷いところは、フーコーが現代の価値体系を相対化しようとしたそのネタ元がニーチェであって、ニーチェ自身は、自らの思想を全くざっくばらんに語っているという点だ。フーコーというのは、基本的にいい人であって、ニーチェをネタ元にしながら、ニーチェより難解な言説をあやつってよろしくやるということに罪悪感を覚えたのだろう。後期には分かりやすい言説を心がけるようになり、最後期にはおずおずとニーチェがネタ元である事を認めるにいたったわけだ。  

これよりひどいのが、フーコーに影響を受けただろう日本の評論家達だ。ある有名な元東大総長は、日本においては、分かるような分からないような言説を語る。もっと突っ込んで言えば、分かるところでは近代の価値観を相対化するようなことを言い、分からないところでは相手を煙に巻くことに専心するという態度だ。さらにネタ元はフーコーで、フーコーに直接インタビューなんていう栄誉が与えられたなら、全く犬のよう、ワンワン、日本での態度が考えられないほどだ。日本の恥だろう。  

ニーチェは渾身の力で世界を相対化しようとした。その言説を利用して、自分の周りの世界を揺らし隙間をこじ開け、そこに身を寄せ自分の社会的身体の栄達を計るなんて下の下だね。    

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ニーチェ「悦ばしき知識 290」にこのようにある。    

「自分自身を統御できない弱い性格の人々は、様式の拘束を嫌う。こうした醜い強制が課せられると、彼らは、それによって自分らが卑俗化されるにちがいないと感じる。彼らは、奉仕するやいなや、奴隷となる。彼らは奉仕することを嫌がる。そういう精神の人たちは、まあ第一級の精神でありうるが、いつも自分自身とその環境を自由な自然として、形成したり解釈したりしようと企てる。そうするのも結構だ。畢竟、、一事こそ必要だ。人間が自分自身の満足に到達することが」     


                これ、オレのことやんけ。   


この前も、妻から、

「あんた、ちょいちょい奇妙な仮説、言うよね」

なんて突っ込まれた。このブログでも、さんざん奇妙な仮説を語ったと思う。昨日も何か書いた記憶がある。あと、両親の墓参りに行っても、手を合わせて拝んだりはしない。意味の分からないことは、やりたくないんだよね。墓石に水をかけるのはやる。墓石がキレイになるような気がするから。仕事でも日常生活でも、整合性のとれた最低限のことをするように心がけている。ニーチェに性格が弱いといわれているのだけれど、確かに弱いかもしれない。自分がずうずうしい性格だと思ったことはない。  
でもニーチェが言うには、私のようなのは「第一級の精神」なんだったて。   

まあそれほどでもないけど。

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ニーチェ「悦ばしき知識 112」で、「誰一人その推進力を説明するわけにはいかない」 とある。

例えば現代においても誰一人として、生物進化の推進力を説明したものはいない。


確かに生物の神経系は時間とともに複雑になってきた。クラゲとキリンを比べたら、キリンの神経系の方が複雑だ。確かにこれは進化と言えなくもない。しかし、その神経系の複雑化の推進力は何かというと、全く分かっていない。

この世界を支える概念の一つに進歩というものがある。現代の進歩史観を支える大きな柱が、ダーウィンの進化論だ。  

進化論でよく例としてあげられるのが、キリンの首だ。進化論は適者生存の論理で、高い木の葉をたべることの出来るキリンが選別され生き残り、キリンの首は長くなったというものだ。まあまあ、首ぐらいはね、適者生存で長くなるだろう。しかし、キリンの首が長くなるためには、首だけではなく、それを支える全体の骨格もより強固にならなくてはならない。突然変異が体全体に同時多発するなんて確率的にありえない。   

つまり、進化論という概念には、科学的整合性というものが極めてあいまいだ。

科学的整合性のあいまいなダーウィンの進化論が、これほど現代において人口に膾炙しているのは、進化論が科学的事実であるというのではなく、進化論が現代の秩序を支える重要な概念だとして、社会から特別に価値が付与されているからだろう。

ニーチェ哲学の一面というのは、このような近現代の価値体系の解体ということだと思う。

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結論から言えば、ニーチェは「悦ばしき知識」において、価値観を相対化しようとする。

この現代社会というのは、様々な事象によって巨大な体系が形成されている。体系に組み込まれていると認証された事象には、程度に応じて価値が付与されている。価値の体系が現代社会の秩序を維持している。逆も考えられる。現代社会が、秩序維持のために価値の体系を必要としている。   

例えば、医学というものを考えてみよう。現代の医学というものには、かなりの価値が与えられている。

医者というのはスーパーハイスペックな職業とされている。
しかし、近代以前においては、医者というのは特別尊重されるほどの職種ではなかった。おそらく、医学というものには、現代において何らかの社会秩序を維持するための役割が期待されているのだろうと推測される。
    
ニーチェは、このような近代価値体系を解体して、さらに「悦ばしき知識」の中で、この価値群を再編成しようとしているのだと思う。   
問題なのは、ニーチェが近代の価値体系をどのように再編成しようとしているのか、ということだ。   

そもそも、近現代の価値体系というのは、完全に合理的には出来てはいない。現代社会は、現状において合理的であろうとはしているが、未来においてもこの社会が合理的であるべきだという責任にまでは思い至っていない。人権や民主主義を標榜する現代の限界というものはあるだろう。   

この現代の秩序体系に対抗して、ニーチェは、時間軸を長く取って社会の秩序というものを維持していこうということなのだろう。大げさに言えば、「人類という種の継続」に価値体系を再編するべきだということになる。   

これは恐ろしい思想だよ。 

ある種の蝶は、何年かに一度、何千匹と北の海に向かって飛び立っていくという。寒さで全ての個体が死んでしまう。しかし、蝶は種として、気候変動で北の大地が生存に適したものに変わっている可能性に自らの一部を賭けているわけだ。
    
「人類という種の継続」に価値体系を再編するというのは、この蝶のような話になってくる。人間個人の意識というものを、はるかに越えてくる。種の継続に現代の価値体系を再編するという思想は、突き詰めれば、まあ突き詰めなくても、ヒットラーの第3帝国的な理論に帰着してくるだろう。現代においては、そのような思想は「悪」と判定されるが、もちろんそのような価値判断がひっくり返っているような社会システムもありえるだろう。

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何度も読みたくなるような本はあるだろうか?   まず、ほとんどないと思う。特に小説形式のものは一回読めば終わりだ。小説というものは、基本的につまらない。ただでさえつまらないから、サイコパスの殺人鬼を出してみたりするのだろうけど、うんざりだ。サイコパス殺人鬼はクールでかっこよくて恐ろしいみたいなことなのだろうけれど、論理は逆だ。あんなものは、人を殺すことによる刺激によってしか自分が生きているという実感が得られないという、ただの哀れな人間としか考えられない。小説とか映画とか、それを文学だとか芸術だとかとみんな持ち上げるけれども、形式の限界なのだろう、短時間で効果を上げるために哀れな人間に頼らざるを得なくなっている。このような一発形式のものを、記憶力の確かな人が2度も3度も読んだり観たりする気にはならないだろう。   ところが幸いにもだよ、この世界には一発形式の小説や映画があふれかえっている。死ぬまでの暇つぶしになら、このようなものを鑑賞するのもいいかもしれない。しかし、個人的にはお断りだ。   孟子や吉田松陰はすばらしいのに、近代以降のメインの表現形式が、なんでこんなに力がないのかって不思議といえば不思議だよね。

私は、プラトンの言説が西洋の価値観を傾け、あのように巨大にしたのだと考えている。プラトンを読んですごいとは思うけれど、自分はヨーロッパ人ではないから、プラトンの言説がこの世界を傾けたなんていう実感はない。日本もまがりなりに先進国として、近代以降の世界の中で戦ってきた。日本をここまで押し上げたものは何なのか。日本にも、その世界観を傾けるような強力な言説があったはずだ。   
日本史上、最大のイデオローグは吉田松陰だろう。吉田松陰の高杉晋作への手紙にこのような言葉がある。    

死は好むべきにあらず、また憎むべきにもあらず。
道尽き心安んずる、即ちこれ死処。世に身生きて、心死する者あり。身滅びて魂存する者あり。
心死すれば生くるも益なし。魂存すれば亡ぶるも損なきなり。  
死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし   

 これを読んだ高杉晋作の魂の震えまで伝わってくるような、まさに圧倒的な迫力だ。吉田松陰も、全くの無からこの境地に到達したわけではない。この吉田松陰の言説に対応する孟子の言説がある。告子章句上10の孟子を私の現代語訳で以下に紹介する。   

「孟子は言う。生きるということも私が望むところであり、正義というのも私が望むところだ。二つのものを兼ねることができないのなら、生を捨てて義をとろう。生きるということも、私の望むところだけれども、それよりも大事なことがある。かりそめに生きていればいいというわけではない。死もまた私の憎むところであるが、死よりも大事なことがある。ためらった時、卑怯者という心の声に従わなくてはならない時がある。もし生きるということより大事なことがないのなら、生きるためだけのために何でもやるようになるだろう。死ぬことが最も恐ろしいことであるのなら、死なないために何でもやるようになるだろう。しかし人は、こうすれば命が助かるといっても、敢えて拒否することもあるし、このままでは死ぬという時も敢えてまっすぐ道を歩く時もある。だから、生きることより大事なことはあるし、死ぬことより憎むべきことはある。人はみな同じだ。英雄だけが生死の執着を越えた特別な能力を与えられているわけではない」    

これが世界を傾ける言説だ。私の稚拙な訳で申し訳ない。原文は100倍すばらしいよ。   
 吉田松陰が孟子の言葉を自分なりに練り上げて、高杉晋作に手紙を書いたのは明らかだろう。しかしこれで、吉田松陰の価値が減ずるなどというものでは全くない。吉田松陰も高杉晋作も、幕末のあの時点で、3000年の東アジアの歴史の積み重ねによって遙か高みに持ち上げられたということだろう。吉田松陰が命を賭して、孟子を信じ崖の向こうに飛び降りた。今この日本があるということは、崖の向こうに確固たる孟子があったということだろう。

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