magaminの雑記ブログ

2016年12月

昔、筒井康隆が作家協会を脱退した時、中上健治と柄谷コウジンと一緒だったんだけど、あれってたまたま3人が坂口安吾の記念講演で一緒になったときに、話がまとまったということがあった。

今から考えると、坂口安吾と筒井康隆ってつながるものがある。坂口安吾は評論はすばらしいのだけれど、小説はその力を生かしきれなかったというところがあると思う。

「不連続殺人事件」なんて、あれを推理小説の枠組みを使わないで書けたなら、もっとよかったと思うのだけれど、個人の力が足りなかったというのはしょうがない。個人が評論も小説も何でも出来るとは限らないから。

筒井康隆は坂口安吾の足りないところを突き詰めたということはあるんじゃないだろうか。   

読書って、山登りとかマラソンとかと似たような感じがあって、なんだか駆り立てられてやるなんていうのがあると思う。
楽して暇を潰すなら、映画を見たり、ゲームやったりで十分だ。あえて歩いたり走ったり、目で文字を追ったりとか正直疲れる。

人前で本を読むなんてかっこつけているだけだ、なんていう言説も広い意味では正しいだろう。

今日本屋に言ったら、筒井康隆の「虚構船団」があって買っちゃった。懐かしい。虚構船団はもう25年ぐらい前の発表作だろう。私が二十歳のころ読んだ。中学生のころ、筒井康隆が好きで、東海道戦争とか笑うなとか読んでいた。ただし、30年前に読んだ小説をもう一度年末年始にゆっくり読むというのは、もう駆り立てられる世界からすこしずれているところにあるだろうとは思う。


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私は子供のころから本ばかり読んできた。歩き読みも30年のベテランだ、最近歩きスマホが危ないなんていわれているけど、危ないのは歩き読みの訓練が足りないからだ。まずもって画面に集中しすぎだ。二割ぐらいの意識は外界に配分しないと。うつむき加減ではなく、真っ直ぐ画面を構えたらいい。  あと人ごみの中での歩き読みは、人の後ろを歩くのがいい。前の人が人ごみを掻き分けてくれるから、自分は比較的画面に集中できる。カップルの後ろとかが割合オススメだ。あいつらは二人分、人ごみをかき分けてくれるから有能だ。ただちょっと歩くのが遅いという難点がある。ベストは体格のいい男の後ろだろう。人ごみをかき分ける能力も十分だし、歩くスピードも満足できる可能性が高い。まあこんな感じで、様々な人を利用して、歩き読むわけだ。  冬場は暗くなるのが早いから、歩き読みには厳しい季節。夏場にも問題はある。暑くて、汗で本が濡れちゃうんだよね。  やっぱり読書は秋。読書の秋。もしくは春。

ホワイトヘッドは
「近代西洋哲学は全てプラトンの脚注に過ぎない」
何て言っていたけれど、これについていろいろぐだぐだ考える。

今日なんか、総力戦思想とファシズムってどう違うなかなーって。ファシズムというと全くひどいイメージで、思想を均一化して同調できないものは排除するという。

ナチスのユダヤ人虐殺はひどいよね。総力戦思想というのは、日本なら日本の一体性の中で誰もがやるべきことをやるというもので、微妙なんだけれどやっぱり総力戦思想とファシズムというのは違うのではないかと思う。

戦中の日本がファシズムだったというのは、言いすぎなのではないかなー。ナチスドイツは突き抜けたマキャベリズム的なものがあって、そこがひどいところなんだろうけど、戦前の日本にはそこまでの非人間的なことはなかったのではないかな。中国で日本軍がひどいことをしたとして、それは日本人の非人道性ということではなく、日本人の弱さだったと思うというか思いたい。  

例えばここにニートがいたとする。まあニートだからダメ人間だよね。社会の役に立たないからダメ人間は死ねという論理もありえるし、社会の役に立つように国家がそいつを引きずり出すという論理もありえる。どちらの体制がより強力な秩序を形成するのかというのは分からないんだよね。どうせ分からないのなら、全ての人が救われるなんていう可能性のある方がいいと思うんだよね。自由主義って自由っていいながら、よろしく自由を享受できない人間は死んでよしみたいなところがあるよ。これってもうファシズムではないのかな。全ての人が救われるなんていうことがありえないものかと思う。   

プラトンの「国家」という本に、国は堕落するという言説があった。哲人国家、名誉国家、金持ち貧乏国家、民主国家、僭主国家。国家はこの順番に堕落するという。哲人国家って結局は独裁制の僭主国家みたいなものではないのか、なんていう批判はありえると思う。この差というのは外側から見ればまったく微妙だとは思う。でもその中で暮らす人にとってはどうだろうか、意味がないとして殺されるのと、意味があるとして生きるのと、やっぱり違うだろう。   

まあこんなことを考えて、結論みたいなものもないんだけれど。  

正月にプラトンでもじっくり読んでみようか。近代西洋哲学は全てプラトンの脚注に過ぎないなんて、誰か言っていたよね。   

全く正しいと思う。

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漫画とか小説とか、なんだかクールで無限の力を秘めていそうなヤツが現れるんだけど、現実にはそんなヤツいないだろうと思う。  この人は尊敬できるなんていう人間に実際に会ったことはない。まあこれは当たり前の事で、みんなそれぞれ自分のことに精一杯ということでもあるだろう。   丸山真男の「軍国主義の精神形態」はよく出来た評論で、丸山真男、結構調べたねと思う。戦後4年でここまで書けたら本当にたいしたものだと思う。戦前の日本の指導者層の精神が矮小であって、そして何故矮小だったのか、ということが丁寧に書かれている。日本の指導者層は、戦中、国民には玉砕というもの呼号しながら、戦後に戦犯指定されると生きながら巣鴨に収監されたという。ここに精神の矮小さが凝縮されていた。しかし戦前はそんなこと、分からなかった。将軍が大きい態度で大言壮語するから、国民はここまで言うからには本物なのだろうと判断してしまったというのはあるだろう。虚構に期待した人たちがいて、虚構に応えた人たちがいたというだけなんだよね。  真実の人間か虚構の人間かなんて、本人ですらギリギリにならないと分からないわけで、これは日頃の心構えなんだろう。  もしギリギリ場面で逃げ出しそうになったとき、心の深遠から「卑怯者」という声が聞こえてくるようになれたらいいのになって思う。

日本の財政赤字というのは政治的には解決不可能で、こうなったらインフレにして強制的に債務をチャラにするべきだという意見がある。このやり方で、世代間の不公平を無くして新しい日本の出発とするというもの。  一見合理的に見えるのだけれど、私はこの考えには躊躇を覚える。  ハイパーインフレ許容論には、ハイパーインフレになっても現在の日本の秩序レベルが維持できるだろう、という根拠の怪しい前提がある。日本人はおとなしいから、ハイパーインフレ下においても政府の言うことは聞くだろうということで、これは、そうであるかもしれないしそうでないかもしれない、実際にやってみなければわからないことだろう。  ハイパーインフレというのは中産階層を破壊する。ワイマールドイツでハイパーインフレになったとき、ドイツ中産階級の女性は処女で嫁ぐという常識が失われてしまったという。別に新婦が処女かどうかなんていうのは個別に取り出してみればどうでもいいことなのだけれど、このような様々な禁欲的思想群が中産階級を支えている。中産階級は禁欲的思想群を足場に、強力な労働にも耐えるという生活をしている。 日本においてどの程度のハイパーインフレがどの程度中産階級の禁欲的思想群を葬り去るかというのは、実際やってみなければ分からない事で、きわめて危険だと思う。ワイマールドイツもハイパーインフレの結果、ナチスのような無法者に取り込まれてしまったわけだし、日本だってどうなるか分からない。日本人は秩序を好む民族性があるなんてよく言われるけれども、そんなものはここ何十年かの神話だろう。関東大震災でパニックになった日本人が、実際朝鮮人にどのようなことをしたのかはここで書きにくいレベルだ。  普通に考えるべきだと思う。  日本の財政赤字が政治的に解決不可能のように見えても、心ある日本のエスタブリッシュメントはギリギリまで努力をするべきだ。それは正義の名に値すると思う。  幕末の志士は戊辰戦争に飛び込んだら明治国家が待っていた、戦前の日本は太平洋戦争に飛び込んだら戦後日本が待っていた。しかし次飛び込んでいい世界が待っているかどうかというのは、これは誰も保障できないことだろう。

半年ぐらい前にうちの会社に入ってきたクマモー。43歳でずんぐりむっくり、すっぱいにおいがリアルにするゆっくりしたオジサンなんだよね。  ところがこのクマモー、奥さんと中学二年の娘がいるという。突っ込む価値があると思って。だって女って命を懸けて男を選ぶから。   クマモーによく話を聞くと、結婚はしていないというんだよね、内縁の妻ということなのかな。さらに聞くと、家庭内でクマモー自身は奥さんの遠い親戚ということになっているということ。ちょっと理解するのが難しいのだけれど、要するに、クマモーは子供ができたことにたいしては身に覚えがあるわけだ、でまあ何らかの事情で、一緒に暮らしながらも父親というポジションを獲得できなかったということらしいんだよね。で、どのような事情があったかというと、当時奥さんなる人には同居していた男性なる人がいて、クマモーによると、この男性はどうやら奥さんの夫だったと思われるという。その人が5年ぐらい前に死んで、クマモー一家は3人家族になったという。  まったくにわかには信じられない話を語り出すわけだ。私は別にクマモーの真実を知りたいわけではなく、何らかの整合性のある話が聞ければよかっただけなのだけれど、さすがにこの話には突っ込まざるをえない。  「ねえクマモー、君の話が正しいとするなら、彼女の夫なる人は、妻の愛人を家族として家に受け入れたということになるけど、そんなことがありえるの?」  「よく分からないんだけど、あの人たちはいい人たちだったっす」  「ねえクマモー、その中学二年の女の子は、本当にクマモーの子供なの? だって何もかもいい加減にして14年もたってるんでしょ?」 「身に覚えがあるっす。ただそれだけっす」  奇妙ではあるけれど、整合性はとれている。  私は渾身の問いを問うた。「ねえクマモー、君さーしょっちゅう会社を休むじゃない? 俺はクマモーが会社を休んだってなんとも思わないよ、みんなでカバーすればいいと考えるだけだよ。でもさー、クマモーがいい加減な理由で会社を休んだら、クマモーの信用がなくなってクマモー自身の真実もあやふやになってくるんじゃないのかな。クマモーの娘が本当にクマモーの娘かどうか、クマモー自身のせいでぼんやりしちゃってるんじゃないのかな」  これに対しクマモーは間髪いれず 「自分もそう思うっす」 と答えた。私は、コイツ馬鹿じゃないなと思った。  これ以上は突っ込めない感じになった。真実なるものをもっとはっきりさせるなら、奥さんと子供なる人たちに直接話を聞くしかないが、別にそこまでやる必要もないだろう。面白いのはクマモーの観念であって、真実ではない。

この廣松 渉の「マルクス主義の地平」は、ペダンティックで不必要な言説が多く読みにくい本なのだけれど、まあそれは1970年代の悪しき風習ということで割り引いていいと思う。トータルとして、マルクス主義唯物論をどう考えるか、もしくは昔はどう考えていたかを知る、ということにかんしてはまずまずの本だったと思う。   

廣松 渉は近代自由主義における自由というものをこのように描く 

「近代では精神的実体なるものの存在が疑われ、精神が純粋な機能に溶解されている。よって、内的な必然であってもそれに必然的に規定されるのでは自由とはいえないという考えが現代において有力になってきた」 

「何ものによっても規定されざる純粋な意思作用の自発性が自由だとされるに及び、これを論理的に徹底するなら、純粋な無が自由概念の帰結となる」  

これは別に難しいことを言っているわけではない。例えば、仕事が生きがいで、一生懸命仕事に専心する男がいたとする。昔なら、このような男は立派な男だと、まあみんなから賞賛されただろう。娘をこのような立派な男にやりたいなんて近所の人から思われたりして、無愛想なのに女のもてたりとか、そんなことだってありえたわけだ。ところが現代においては「精神的実体」なるものが疑われてしまっている。すなわち、仕事が生きがいだなどというと、現代では遊びを知らない仕事馬鹿みたいに思われてしまう。実際に子供の保護者会父親パーティーに行くと、自己紹介で仕事と趣味を言わされる。  

すなわち、現代にいては仕事の価値基準とプライベートの価値基準の二つの世界観を持つことができる男の基準だったりする。このような現象も結局は「精神的実体」が疑われたことに起因する。  

しかしマルクス主義的唯物論は唯物論だけあって、この「精神的実体」というものを拒否する。すなわちこの世界がある価値基準を共有しているのは、歴史の発展の必然だと強弁するわけだ。廣松 渉が言うに、「世界理性の目的を察知し、それを自分自身の目的として措定する」ということになる。これはこれで一つの確固とした、自己認識的な考え方だとは思う。人間がその世界観を決定するというのは普通だけど、確かに世界がその人間を決定するというのはあるよね。   

しかしこの話を押していくと、まあ例えば、俺が馬鹿なのは親が馬鹿だったからだとか、やっぱり生まれって大事だよねとかということになり、さらに押していくと、国家内の価値観は、国家が歴史の発展段階を勘案して決めます、見たいなことになるだろう。  

こう考えると、マルクス主義は斬新な考え方ではあったけど、究極的な考え方ではないよな



資本論
絶対的剰余価値の生産            
相対的剰余価値の生産
資本の蓄積過程
本源的蓄積
岩波文庫 第四巻
岩波文庫 第五巻
岩波文庫 第六巻
岩波文庫 第七巻
岩波文庫 第八巻
まとめ
廣松 渉 「マルクス主義の地平」


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丸山真男の「日本ファシズムの思想と運動」の結論というのは、日本は近代の精神というものがドイツやイタリヤと比べて未熟だったので、日本ファシズムはヒットラーのような統一的な戦略を組むことが出来なかったというもの。この言説は、日本はとぼけていたからナチズムのようなひどいことまでは出来なかった、みたいな話で、そんなふざけきった論理が成り立つものだろうか。   そもそもファシズムとは何かと考えてみる。   近代とは何かというと、様々な価値を秩序付けるよって世界を整合的に認識しようという精神運動だろう。価値が秩序付けられた世界に暮らす人間は、そのような価値観の傾きが当たり前だと考えるようになる。かつて何らかの強力な言説が、世界の価値を秩序付け、世界の価値観は傾き、人々はその傾きを当たり前だと考えるようになり、その強力な言説は必要とされなくなり忘れ去られてしまう。もしそうだとするなら、傾いた世界のその下には傾いた分だけの空洞があるだろう。そこはかつて世界を傾けるほどの強力な言説がはめ込まれていた場所。自由主義の自由とはこの空洞のことを指す。自由主義、民主主義の自由とは、「この世界が思い通りになったらいいな」的な自由だ。束縛されないという意味に還元される。  ファシズムとは結局、世界の価値観の傾きを不安定だと考え、傾きの下にある空洞に、自由主義者が自由と呼ぶその空洞に、何らかの言説を押し込もうとする運動だ。ファシズムというのが一概に否定できないのは、失われた強力な言説を回復するという思考に合理性があるからだと思う。  分かりやすい話をしてみる。  小中高と一生懸命勉強して、まあいい大学に行ったとして、女の子と出会い結婚し子供も出来て、仕事では能力に応じて頑張って人にも評価され、年をとり孫もできてそこそこの生活をするうちに最後は死ぬだろう。このような人生においての自由とは、結局レールから外れたところの趣味という名の空洞と同じ意味になるだろう。ではそもそもレールは何で傾いていたんだ? 意味のない傾きと趣味という名の空洞。 もしこの空洞に意味のある言説を押し込むことができたなら、意味のない傾きは実体のあるものになるだろう。しかし、自由主義者にとっては、この空洞こそが自由であり、この空洞に何らかの言説を押し込もうとするものは、自由の侵害者であり、ファシズムという名で呼ばれるわけだ。  ここまで考えてみて、では日本ファシズムが戦前、ナチズムのような強力なイデオロギーを展開できなかったのは、日本の発展段階の未熟さ故であるなんていうのは、ちょっと無理なのではないかと思う。強力な言説が失われた時期が、遅いかとか早いかとか、そんなものに価値の差なんていうものがあるのだろうか。

自分、子供のころADHD(注意欠陥・多動性障害)だったと思う。  忘れ物も多かったし、テンションも今から思うに異常に低かった。通信簿の先生のコメント蘭には、ぼんやりしているとか教科書に落書きばかりしているとか、そんなネガティブなことばかり書かれていた。小学3年のときに、クラスで、忘れ物をしたら一つチェックするみたいなことをやった。忘れ物の回数を見える化して忘れ物を減らそうということだろう。私は年間を通じてクラスで忘れ物ランキング2位だった。1位は養護学級上がりの、からのランドセルをしょってくるヤツだった。あいつに勝つのは無理だよ、ランドセル以外 何ももってこないんだから。  ぼんやりするのも理由はなくはない。今から考えると、あらゆる価値が等価だったんだよね。先生の話も、机にあいたくぼみも。聞きたくない先生の話を無理に聞くと、なんだか自分を削っている様な気がした。あらゆる価値は等価なのにと思っていてその中で、人から価値観の序列を強制されると、自分を失うような気がするんだ。だから戸惑うしかない。それを外側から見れば、ぼんやりしているように見えるだろう。  中学2年の時か、フランツ.カフカの「審判」を読んだ。これにのめりこんで、二年かけてカフカ全集を読んだ。カフカってどう思う? あれって、面白いものでもないと思う。何故か世界的に評価されていて、実際に読んでみると不思議な感じがするという、その程度のものだろうと思う。カフカの何がすごいかって、きっちり説明したような評論を読んだことはない。  中学生の私は何故カフカにのめり込んだか?  ざっくり言ってしまうと、審判のKとか城のヨーゼフKとか、あれはADHDだろう。世界は異郷であって、その世界の価値観の序列に自分の心を合わせることを拒否するという。世界には何らかの価値の秩序があるらしいのだが、その価値の秩序をもたらす根本の言説を誰も語らないというぼんやりとした恐怖  「審判」なんて、物語というものではなく、断片の集合体みたいなものだ。価値が等価だと思う人間が価値の体系を押し付けられたら、「審判」みたいになると思う。    これは、分からない人には分からなくてもいい話で、分かる人には何らかの希望だと思う。  

注意欠陥・多動性障害って、これは病気なのかな。あまりに症状が酷くて日常生活が送れません、というのでは問題だけれど、軽度ならもうそれは「性格」というレベルだ。  近代というものは、何らかの信念によって価値観が序列付けられている。大事なものと大事ではないものが明確になった社会では、大事なことをやらなくてはならないという圧力が生じてくる。  価値の高いものから順番に仕事をしていく人間は、もちろん正常と判断される。これを逆にして、何かやらなくてはならないという焦燥感を抱いた人がいて、この人が価値の高いものから順番に仕事をしたとして、この人はどのように判断されるだろうか。まあまあ、正常だけれどもちょっと仕事熱心だと判断されるだろう。  では、何かやらなくてはならないという焦燥感を抱いた人がいて、この人が目に付く仕事を手当たり次第にやったとしたらどうだろう。いやいやこれは軽度のADHDといわれる可能性がある。  この人は「価値観の序列付け」が出来ないのに、何かをやらなくてはならないという気持ちだけあるわけだ。  そもそも焦燥感のみを煽ったのは近代社会のほうだし、「価値観の序列付け」なるものも社会の方が勝手に個々人に割り振っているような状況だろう。 この世界では価値の判断というのは自由であるというのが建前なのだから、価値観の秩序のつけ方が社会の要請と違うからといって、病気扱いするのはひどいのではないか。 この辺が精神医学の似非科学たる所以だ。科学とはどの時代においても成り立つ岩盤の上に立たなくてはならない。少なくとも岩盤の上に立つ努力はしなくてはならない。にもかかわらず精神医学は近代世界の奇妙な傾きの上に立ち、ADHDなる病気を発明する。まさかADHDを直す薬なんてあるんじゃないだろうな。これ、かなり副作用がきつい薬になるだろう。

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