magaminの雑記ブログ

2016年03月



パノプティコン 一望監視装置

社会の秩序はいかにして保たれているのかという問題。もちろん保たれたり保たれなかったりするわけなのだけど。日本の江戸時代なんかは、1割の武士が武器を独占する貴族階級として支配していたんだろう。神様には嘘はつけないというプレッシャーも秩序維持に一定の役割があったかもしれない。

では現代の先進国はいかにして秩序が保たれているのか。

もちろん警察とか刑法とかは抑止力になっているだろうけど、こんなものにお世話になる人なんていうのはよっぽど。ほとんどの人は自ら秩序を保とうと努力する。ざっくりいってしまうと、現代日本では対人関係においてのマナーみたいなものがそれぞれに訓練されてある。特に若い人ほど訓練されている感じ。
みんな自ら秩序を保とうとしている。

神様がいるとしたら話は簡単だ。神様には嘘はつけない。秩序は保たれるであろう。
だがもしも神様がいないとしたら? 
すべてが許されてしまうのか?

ベンサムは19世紀初頭、パノプティコンなるものを考え付いた。一望監視装置。これは監獄を効率的に運営するシステムだ。監獄の中心に塔があって、そこに監視人がいる。塔の周りに見晴らしよく部屋が配置されていて、囚人は塔の監視人に常時見張られているという圧力を受けて生活する。見張られているから秩序を保つ。

そして長い時間の果てパノプティコンは進化した。
1人が多くを監視するのではなく、互いが互いを監視するとどうなるだろうか。その世界に住む個人には多くの人に見られているという意識が発生するだろう。正直これではオナニーも出来ない。実際ヨーロッパの近代にはマスターベーション撲滅運動というのがあった。

さらにパノプティコンは進化しつつある。
他人に見られているという意識が内在化すると、自分が自分に見られているという意識になる。ここまでいたれば現代社会においても結構高級な部類の人間に入ると思う。今こういう人が増えている。いいことなんだろう。

頭上に良心以外いただかずなんて北一輝は言ったけれども、それに私も心から同意するのだけれども、結局大文字の良心なんていうことは神を失った人間の成れの果てなのかな。良心なんていうものは結局パノプティコンの必然的な結果程度のものなのかな。

ミッシェル.フーコーは告白について、

「一般的にいって告白とは、ある人が支配や強制を受け取るといった力関係の中で生まれる本人自身に関する言説である」

と語っている。 

これはある。

日本にも昔、告白小説みたいなものが流行ったことがあって太宰治の「人間失格」なんていうのはその代表格だと思います。今、人間失格を読むと正直たいしたものではない。とにかくしんきくさい。あれを面白いなんていう人は太宰治と同じような社会的な支配と強制の圧迫を感じていると思っている人でしょう。
太宰治の面白さは同じ圧迫を共有できるなんていうものではすでになくて、言葉遣いの面白さだったりします。

1980年代くらいまでか、個人的に告白小説が面白いなんて感じていた時期がありました。告白することによって救われるような気持ちがしたのです。

最近は社会的な支配と強制というのがかなり薄くなってきたのではないか、別の言い方をすれば支配と強制が巧妙になってきたのではないかと思います。私の中学生の娘はクラスで一匹狼らしいです。親としては心配します。30年前の感覚では一匹狼なんていうのはクラスに1人か2人しか居ない。しかしよく話を聞いてみると、今の中学生はクラスの半分ぐらいが一匹狼。いわゆるスクールカーストに参加しているのはクラスの半分ぐらいしか居ないらしい。

なにそれ。スクールカースト意味ないじゃん。

告白小説が面白くなくなるわけです。支配と強制に参加しているものが告白してそしてそれを参加しているものが読んで、そんな循環が面白さの実感を醸成するのであって、一匹狼が群れのわびさびのしきたりを読んだとしても、それがつまらないのは当たり前でしょう。

時代はいい方向に流れつつある。古い言葉で言えば、社会は進歩するということ。進歩という言葉を使わず表現すれば、人間社会はその本性を現しつつあるということ。そういうことではないのかな。

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今日、府中の映画館にドラえもんをみに中学生と幼稚園の娘二人と行ってきました。今回のドラえもんは出来がよかったと思います。ドラえもんたちが7万年前の日本に行くという。7万年前の中国大陸で、悪い人たちに虐げられていた中国大陸の人たちを現代の地理的名称の日本地域に連れてきてあげるという話でした。中国人も日本人も7万年遡れば同じだよ、というメッセージを読むこともできます。でもまあなんせ7万年前の話ですから、今の中国が嫌いだなんていう人も、べつに目くじらをたてることもないと思います。

物語コーポの話ですね。
府中の焼肉キングに私と娘2人の3人で行ってきました。税抜き1980円の食べ放題ランチにしました。肉質は正直あまりよくなかったですね。基本的に肉はカルビ、タン、ロース、豚バラ、ホルモンなのですが、ロースは成形肉ッぽくてちょっと大量に食べるにはきついものがありました。ですからタン、豚バラ、ホルモンを織り交ぜながらのカルビの連続攻撃になります。さらに6人席に案内されたのですが、焼肉を焼く面が小さくて、お腹がいっぱいになるまでに70分かかりました。制限時間は100分です。2人半でお腹いっぱいになるのに70分かかるのですから、あの6人席に大食いが6人座って制限時間内に肉だけでお腹いっぱいになるのは難しいのではないでしょうか。
食べ放題ランチコース1980円(フリードリンク付き)、の他に
58品食べ放題コース2680円+フリードリンク390円
スタンダードコース2980円+フリードリンク390円(クーポンで半額)
プレミアムコース3980円+フリードリンク390円(クーポンで無料)
があります。ただ食べ放題ランチコースと58品食べ放題コース2680円は内容がほとんど同じなので、ランチが効く時間帯なら食べ放題ランチコースのほうがはるかに得だと思います。
あと1人前が少ないです。今日2人半なのにカルビだけで16人前も食べています。そもそも食べ放題がメインの店なので1人前分が少なくても問題はないし、会計でレシートをもらった時にこんなに得したんだなという満足感があったりします。まあそれがお店の狙いなのでしょうが。

物語コーポ焼肉キングは食べ放題という形式に完璧に特化したお店でした。

私は現在物語りコーポを優待Maxの900株持っていて、半期で15000円年30000円の優待券になるのですが、今日だって4000円しか使っていないわけで、このペースだと最低年7回は焼肉キングに行かなくてはいけません。これはちょっときついものがあります。手軽にいけるほど店が近くにあるわけでもありません。今日だって電車を使ってのお出かけです。個人的には300株分、年10000円の優待券が私個人の適正レベルだと思いました。



As−meエステールはジュエリー業界2位の企業です。

株価 695円
PER10.91 倍PBR0.60 倍
配当 24円 配当利回り3.45%
となっています。

先週の金曜日に業績の下方修正を発表して、その下方修正値をもとに株価695円を前提に計算すると

PER 48.4倍

ということになります。

株主優待は
優待内容名優待獲得株数備考
買物券(2,000円)1枚500株以上(3月のみ)
2枚1,000株以上
5枚5,000株以上
10枚10,000株以上
10,000円相当の商品1000株以上(3月のみ)
※15年は3種類より選択
500円相当のクオカード100株以上(9月のみ)
 
ということになっています。

私は2000株もっていて、実際に去年10000円相当の商品と買い物券4000円と500円のクオカードをもらいました。10000円相当の商品は中学生の娘に上げました。ちょっと微妙な顔をしていました。買い物券4000円というのは仕事先の女の子に上げました。こちらもちょっと微妙な顔をしてましたね。
As−meエステールがジュエリー業界2位といっても、1位は7889桑山で、桑山は国内のOEM中心ですから実質の1位はAs−meエステールではないのかなと普通に考えていました。
業界首位で配当優待合計利回りが5.5%なら悪くないのではないかなんて、これはまったくオヤジの考えでした。国内ジュエリーブランドランキング1位は4℃だって。4℃は東証一部に上場しているので、これはさすがに私も知っています。2位以下はスタージュエリー、アーカー、アガット、ヴァンドームと続くらしいのですが、全く知らないです。As−meエステールはどこに出てくるのかと思ったのですが、7位BLOOMがAs−meエステールの子会社だということだけは分かりました。
As−meエステールが展開しているミルフローラとかエステールというのはただ店の名前なのでしょうか。As−meエステールのオンラインショップを覗いてもほとんどBLOOMですし。

何がなんだか分からなくなります。4℃がすごいというのは分かりました。あとAs−meエステールは大変だというのも分かりました。でもその先はちょっと。ジュエリー業界というのはブランドが乱立していて、かわいそうなぐらいです。ブランドの紹介なんていうのも、このブランドは日本の有名デザイナーがニューヨークで立ち上げたもので素材もニューヨークで手に入れたものにこだわっています、とか昭和臭すら漂うようなコンプレックスじみたことが平気で書いてあったりします。この有名デザイナーはパリとかも行っちゃうんだろうなーなんて思ってしまいます。

As−meエステールをなんとなくで2000株も買って、自分は何をやっているのだろうと今さらながら考えます。下方修正を喰らっても、目覚めるのなら目覚めないよりはいいと思います。



世界システム論が私たちに与えた影響というのは大きい。例えば日本が先進国でハイチが発展途上国だとして、何故そのような格差が存在しているのかと考えてみる。簡単に考えてしまうと、日本人が頑張ってハイチ人が頑張らなかったということになる。江戸時代の日本人の識字率が高かったがハイチは低かったのだろうとか、このような思考パターンも頑張った日本人頑張らなかったハイチ人論理の一つの変形だと思う。

しかし世界システム論はこのようななんとなくうさんくさいと思わせる単純論理を明確に一掃した。ハイチはイギリスからの投資で砂糖のモノカルチャー経済に特化させられた。砂糖を生産するハイチ、砂糖を消費するイギリスという枠組みに捕らえられ、ハイチは世界経済システムの周辺に釘付けられてしまった。永遠の発展途上国。日本は世界システムのあまりに辺境にあったために、世界システムの周辺に釘付けされることなく世界システムの中枢に参加する資格を与えられたという。

耳に心地よい偏見は真摯に見直されなければいけない。

今の日本が先進国であるのは明治人がすばらしかったからであるとする。西郷や大久保、高杉晋作や伊藤博文など綺羅星のごとくの天才。天才達が作り上げた明治国家を昭和の凡人があの太平洋戦争で台無しにしてしまった。
このような歴史観は全く疑われなくてはいけない。

最近の世論調査では中国嫌いが8割以上だという。
なぜか。
頑張った日本は先進国で、ぐずぐずしている中国は発展途上国なのが当たり前だというのが20世紀の論理だった。ところが最近になっての中国の急成長で、中国の経済規模は日本をはるかに超えてしまった。馬鹿にしていた国が急に自国よりも大きくなってしまって恐怖感みたいなものがあるのだろう。
しかしそもそも、頑張って先進国になった日本とぐずぐずして発展途上国だった中国、なんていう認識は正しかったのだろうか。
正しくもない前提に基づいて日本人の中国嫌い8割なんていうのでは、これはちょっとひどいのではないか。戦後を生き抜いてお年を召した方たちには救われない偏見というのが魂にこびりついていたりする。しかしけっして彼らは悪人というわけではない。日本人と中国人の人間的な交流がさらに盛んになれば、中国怖いみたいな幻想も薄れていくだろうし、どうしようもない歴史の力が日本と中国を遠く離してしまったということが体感できる時が来ると思う。

坂口安吾「デカダン文学論」は昭和21年」発表。

この中で坂口安吾は、
夏目漱石の「心」と「門」を評してこのように書いている。

「人間本来の欲求などは始めから彼の文学の問題ではなかった。彼の作中人物は学生時代のつまらぬことに自責して、二三十年後になって自殺する。奇想天外なことをやる。悩んで禅の門を叩く。別に悟りらしいものはないので、そんなら仕方がないと諦める。物それ自体の実質に就いて、ギリギリのところまで突き止めはせず、宗教の方へでかけて、そっちに悟りがないというので、物それ自体の方も諦めるのである。こういう馬鹿げたことが悩む人間の誠実な態度だと考えて疑ることがないのである」

私はいくつかの夏目漱石論を読んだけれども、この坂口安吾の夏目漱石論ほど現代的であると思ったものはない。言っていることが全くの正論に聞こえて、さらに「奇想天外なことをやる」とか「こういう馬鹿げたことが」なんていう言葉遣いが私の心を引き付ける。坂口安吾がこれを書いたのが昭和21年だという。
現代よりも現代的な昭和21年の坂口安吾。そして何度でもよみがえる夏目漱石。

すばらしい。

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ピエール リヴィエールは二十歳のときに母と妹と弟を殺します。1835年、フランスのノルマンディーにある小さな農村での出来事です。
ピエール リヴィエールは狂気に取り付かれていたのでしょうか。そう考えれば安心できますよね。なんせ3人も殺しているのですから。このリヴィエールの手記が残っています。殺人にいたるまでの手記。

手記を含めた事件全体を観察して、カーン市のある医学博士はこのように当時の新聞に投稿しています。

「親に対する敬愛や感謝の気持ちが度を過ぎ、狂人達はみずからの知性を総動員して妄想の対象のうちに立てこもる。誤った観念をいくつか組み合わせた後、彼らはそれを真理とみなす。そしてそれに基づいて正確に推論し、そこから合理的な結論を導き出すのである」

一見正しいことを言っているように聞こえるが、まずこのような言説は徹底的に疑ってみなくてはいけない。狂気の外側に真理があり、医学博士なる権威はその真理なるものを直感しており、真理を狂人に悟らせるのが我々権威ある知識人の役割であるというわけです。なぜ真理と権威とは直感で無条件に結び付けられているのか。狂気の中にも真理があるということありえるのではないか。

狂気とは何かともう一度問う。
1828年、フランスのある精神科医はこのように主張する。
「部分的狂気(モノマニー)が一種の狂気とみなされるのは、情念それ自体が狂気と同一視される限りにおいてのみのことである」
すばらしい。自らの核心に自ら一歩近づいている。

すなわちある基準を越えると情念は狂気になるという。ではその基準とは何なのか。おそらく真理に裏打ちされた権威か、権威に裏打ちされた真理か。
突き詰めて考えるとこの世界が狂気であるということもありえる。近代西洋世界は合理性を優先する。一見正常であるように見えるが、しかしこの世界の根底は、世界は合理的であるはずだという非合理的な情念によって支えられていると言えるのではないか。すなわち狂気か。

観念や真理や権威が互いに寄りかかりあって成立しているのだとしたら、その関係性が古びてしまうということも十分ありえます。その中でリヴィエールの殺人に至る手記が現代においても生々しさを失っていないとしたら、これは一つの復讐みたいな、ささやかな罠みたいな、なんだかそんな感じがします。

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