magaminの雑記ブログ

2015年01月

1 山崎闇斎と荻生徂徠

2 福沢諭吉中江兆民

3 原敬と美濃部達吉



1 山崎闇斎と荻生徂徠

山崎闇斎と荻生徂徠というのは江戸時代の儒者です。

原文を読んで二人の違いをじっくり感得するというのが一番いいのでしょうが、そこまではなかなか出来ないです。誰か簡潔に教えてくれないものか、と思っていたのですが、いい本にめぐり合いました。

山崎闇斎は日本朱子学の正統でしょう。この世界には形而上的な真理が存在していて、その真理が現在の社会のあるべき仕組みを決定している、と闇斎は考えます。そしてここからが重要なのですが、闇斎は社会のあるべき仕組みというのは、ただ与えられるものではなく個人個人の精神力による努力によって達成されるものだ、というのです。

荻生徂徠は朱子学者というより中国古代の法家です。社会の仕組みというのは何らかの真理の顕現というのではなく、人類の歴史の中で獲得されたある種の到達点だというのです。環境が変われば社会の仕組みも変えていかなくてはいけない。可変的だからといって社会の仕組み、すなわち法体系自体は、人間が社会的な生物である以上絶対必要なものである。まあ、功利主義的な考え方です。

この二つが重なることで江戸時代の官僚世界は維持されていたというのです。

「忠臣蔵」における価値判断で山崎闇斎と荻生徂徠を比べてみましょう。
闇斎的に考えれば、幕府の法に逆らってでも主君の恨みをはらすのはギリギリ肯定されます。あるべき真理の法に向かって前進するのが好感が持てるという事でしょう。
徂徠的に考えれば、忠臣蔵は認められません。必要に応じて現在の幕府の法があるわけですから、大石倉之助もその枠組みの中でやってもらわなければ困ります、ということになるのではないでしょうか。

この二つの考え方が、江戸から明治を突き抜け現代に至る、官僚機構の基本思考です。


2 福沢諭吉と中江兆民

「文明論の概略」の中で福沢諭吉が、
文明の究極の理想は世界連邦のようなものであるだろうが、現状の世界は列強国による競争の時代だ。日本は世界連邦という理想を胸に秘めつつも、現状としては独立国としての体裁の維持に努力するべきだ、
と言っていました。

これを最初に読んだときはビックリしました。二重焦点論法です。二つの異なる価値観を相対的なものとみなして、あえて片方を選んでみました、という自由の論理です。

明治の初期に、福沢諭吉は理想と現実の価値観がある中で敢えて現実を選んで、その活動を展開したのでしょう。中江兆民は敢えて理想を選んで、その評論活動を展開したのでしょう。

福沢諭吉は何処からこの論法を引っ張ってきたのか、前から不思議だったのです。いくら天才でも普通に生活していて思いつくものではない。
ここで出てくるのが、山崎闇斎と荻生徂徠です。
山崎闇斎は形而上的な真理は存在していて、人間はその真理に向かって日々前進していくべきだ、と考えます。理想主義なわけです。
荻生徂徠は人間社会を維持していくためには何らかの機構が必要であり、人間社会をよりよく維持していくためにはよりよい機構が必要である、と考えます。現実主義なわけです。
この二つの考えが融合したものが、江戸幕府体制だったのです。
状況が変わって、徳川幕府もその体制を維持できなくなりました。理想主義や現実主義の中身が変わっても、その枠組みは明治維新後も生き残ったのでしょう。福沢諭吉は江戸時代の知的蓄積を新しい時代の言葉で表現したのでしょう。そもそも、バックルやギゾーを読んだだけで、あれだけのものが書けるわけない。

福沢の天才の向こうに、歴史の重みというものをひしひしと感じます。


3 原敬と美濃部達吉

明治憲法によって藩閥政府は正当性を付与され、日清日露の戦争を戦い抜くことで藩閥官僚体制は、その有能性が証明されました。

そして時代はめぐります。

帝国議会というものは、そもそも明治国家権力の外縁部にあって、反藩閥政治、反政府の巣窟でした。藩閥政府が功利主義の官僚体系なら、帝国議会は理想主義の砦でした。
明治後期から大正にかけて、この枠組みを変えたのが原敬です。
原敬は政友会という政党をまとめ上げ、政府の予算を議会で通す代わりに官僚政府内部に自分の子飼の子分を押し込んだりとか、政府の予算配分を恣意的に操作するとかの手法で、議会を政府と敵対するものではなく、政府と一体であるものに変えて行きました。

議会の成員は選挙によって選ばれるわけですから、議会制民主主義のさきがけですね。

美濃部達吉は原敬と同世代の高名な憲法学者です。美濃部は明治憲法を拡大解釈して、大日本帝国を一つの生命体とみなし国民一人ひとりがそこに参加すべきものであると規定しました。国民、議会、政府、これらが一つの生命体を構成するわけです。

こう見ると、原敬と美濃部達吉は互いに高めあうパートナーです。日本国民は一人ひとりが議会を通して国政に参加する、それは明治憲法にもうたわれている国民の正当な権利である。

一見するときわめて現代的な、全く問題ない、大日本帝国には幸せな未来が約束されているかのような。

もちろん現実は違います。原敬は暗殺、美濃部達吉は貴族院で弾劾、日本国民は政党政治に信頼を持たず、政治指導者を軽蔑するのみ。結局は軍部に権力は移行し、最後は太平洋戦争。

原敬と美濃部達吉のコンビネーションの何がダメだったのでしょうか。
原敬の恣意的な予算配分で票を集めるという戦略は、結局利権政治みたいな事になります。利権政治の醜悪さというのは戦後もかなりの間継続しましたから、いま40代以上の人ならその醜悪さをよく知っているでしょう。
美濃部達吉は日本を一つの生命体とみなしました。日本官僚機構はその体系自体によって生命力を付与されるわけです。しかしこの生命体系がうまく機能しない場合はどうすればいいのでしょうか。足が腐れば足を切り捨てればいいのでしょうか、手が腐れば手を切り捨てればいいのでしょうか。手も足も命ある国民で構成されているのですよ。

結局、党派政治というものは自国の安全の確保をやっと獲得したばかりの国家には、許しがたい贅沢だと国民に判断されたという事です。

話は初めに戻るのですが、山崎闇斎の理想主義と荻生徂徠の功利主義をミックスした江戸幕府体制というのはたいしたものです。官僚的功利主義だけでは歴史の厚みを突き抜けてはいけないのですね。


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かに!カニ!蟹!<美味いカニの専門店> カニの浜海道



アダストリアホールディングスは服屋さんを大量に出店している企業です。「服屋さん」以外でおそらく適当なカタカナ語が存在するであろうとは思うのですが、ファッションに興味がないものですから、ファッション関係の語彙力まで低くなっています。

2685 アダストリアホールディングス
株価 3040円
配当 75円
PER 105.45倍
PBR 1.59倍
株主優待は
10株以上 2,000円相当の商品引換券
100株以上 5,000円相当の商品引換券
1,000株以上 10,000円相当の商品引換券
5,000株以上 20,000円相当の商品引換券

となっています。10株だと強烈な利回りになります。

街中にあるこじゃれた服屋に一度は入ってみたいと思うのですが、優待券ナシではとても入る勇気がないです。

まだアダストリア現物を持っているわけではないのですが、一応下調べとして私の活動範囲である川崎のアダストリア店舗をリストアップしておきたいと思います。

アトレ川崎 
 ローリーズファーム women
 ジーナシス women
 へザー women
 アパートバイローリーズ women
 レイジーブルー men
 ハレ men women
 ジーナシス women
ラゾーナ川崎 
 グローバルワーク men women
 ブリスポイント men women
 レピピアルマリオ women

以上ポイント系

アトレ川崎
 アンデミュウ women
 バンヤードストーム men women
ラゾーナ川崎
 スタディオクリップ women

以上トリニティーアーツ系

同じ施設に何店舗も出しているのですから、それぞれに特色はあるのでしょうが、何がなんだか分からないです。書き出すだけで疲れました。
もしアダストリアの権利を取ったら、このショップリストのmenとある方に行ってみたいと思います。womenとあるほうにオヤジが突撃しちゃって営業妨害みたいになっても申し訳ないですから。




明治20年において、華族には三種類あって、公卿家族、大名華族、明治維新で活躍した下級武士華族、に分かれます。四民平等というのを建前に、明治国家は成立するわけですから、本来華族なんていうものは必要ないはずです。しかし、そこが明治維新の革命が徹底しないところだったのでしょう。

大正維新だとか昭和維新だとか、いつまでも第二の明治維新が叫ばれたのは、華族や財閥の存在というのが関係しているのでしょう。

そしてあの敗戦が全てを押し流してしまった。血筋とか伝統で自分が他人より優れた人間であるはずだ、という幻想は日本からは消えてしまいました。こういう感覚を大事にしていかなくてはいけないです。

この本は明治前半における、爵のランクをめぐる哀れな狂想曲を丁寧に解説してくれています。伯爵が侯爵に昇格したって、結局は敗戦で何の意味もないわけですから、この本の丁寧さが逆に残酷さにつながる感じがすごくいいです。

一つ例を出しましょう。加賀前田家(侯爵)に生まれたマナー評論家兼皇室評論家(笑)酒井美意子(1999年没)の戦前における級友との会話です。

級友
「あのとき前田さんはだいぶ後になって朝廷側におつきになったのね」
酒井
「そうなの、だって将軍家とは親類でもあったし、うかつには動けなかったらしいのね。うちの父がいつも申しますの。あのとき立ち遅れたのはまずかったって」
級友
「ほんとね。だから論功行賞で損なさったのよ。もっとはやく兵を挙げてらしたら、侯爵でなくて当然公爵だったというお噂ね」

どうでしょう、このいかにもマリーアントワネットの取り巻き同士が交わしそうな会話は。いかにもフランス革命前夜という感じです。



鶴見俊輔は戦前戦後の転向についてこだわっているみたいです。

丸山真男は、
「日本人の転向」は日本人特有の現象である。日本人の精神の中には観念が並列に並んでいて、その時代にふさわしい観念を引っ張り出しているに過ぎない。
ということを言っていました。
戦前における共産党党員の転向とか、戦後における、皇国主義から民主主義への日本人全体の転向についての解説です。

しかし、日本人がみんながみんな転向したわけでもないのですよね。女性とか、農村における常民とか、変わらないものを持ち続けた人たちというのも存在したわけです。結局、生活に根ざしてあるものは変わりにくいし、生活と切り離された論理というものは変わりやすい、転向しやすいということなのでしょう。

昭和の歴史というのは、男はどのように変わっていったかという歴史でしょうが、逆に考えると女はどのように変わらなかったか、というふうにも考えられます。

私の妻なんて、本当に頑固なのです。
子供がゲームボーイという携帯ゲーム機を片付けるのを忘れたのです。怒ってゲームボーイを隠してしまって、お願いしても頑として出さないのです。
隠し続けること2年。
子供もそろそろ反省しただろうという事で、ある日突然おもむろに出してくるのです、ゲームボーイを。
そのころには子供達はゲームボーイの次世代ゲーム機DSをピコピコやっていました。

女性の中にこそ変わらない日本があるのではないでしょうか。それがいいとも悪いとも思わないですが、すごいとは思います。


評価額合計
31,999,564 円
±信用建玉評価損益


株価上での外食株優勝劣敗というのが激しいです。3077ホリイフードサービスって悪くない銘柄だと思うのです。
3077ホリイフードサービス
株価 611円
配当 7円
PER 13.64倍
PBR 1.08倍
株主優待 100株 2000円分
       500株 5000円分
      1000株 10000円分
の自社店舗優待券です。

成長性もあるし、優待もあるし、利益水準もまずまずです。

このホリイフードサービス、昔は村さ来のフランチャイジーだったというのです。村さ来といえばジー・テイスト。で、ジー・テイストを調べてみると、株価が、119円。もうこの時点で後を調べる気持ちが萎えます。こりゃ無配だろ、と思って四季報を見ると配当が0.5円。配当あるんだね。でも0.5円て何? 小数点以下ってあるんだ。
ジー・テイストの親会社は3038神戸物産。神戸物産の四季報を見ると、太陽光発電での売電事業育成とあります。結構何でもするのですね、神戸物産。で、神戸物産の筆頭株主は、

公益財団法人業務スーパージャパンドリーム財団

つかみどころのない名前です。財団って二回言っているし。
なんだか中に飛び込んでみれば、楽しい物語がきけそうな雰囲気がします。

ホリイフードサービスは悪い銘柄ではないと思いますが、株式市場は何が起こるか分からない世界です。何百万円も買って、ポートフォリオ主力というわけにはいかないですね。

現代というのは生きる意味というものを見つけにくい時代だとは思います。江戸時代のように村落共同体が個人に役割を割り振ってくれるわけでもなく、戦前戦後にかけてのように国家が個人に役割を割り振ってくれるわけでもなく、現代においては、個人がそれぞれに生きる意味を見つけるということなのでしょう。

人間というものは生きていれば心が空っぽになる構造になっているのでしょう。人間は生きる意味を求める生物なのでしょう。その実存的真空をかつては、村や国が埋めてくれていたわけです。

しかし現代では実存的真空を自分で埋めてくださいというのです。
ああ、私にとってこんないい時代はない。

私の心の空虚さは意味のある文章を読んでいれば、満たされていきます。心の空虚さは再生産されていきます。しかし多くの言葉がしんしんと心の空虚に降り積もっていきます。言葉が私を満たし、そして満たし続けてくれます。これほどの直接的な生きがいが他にありえるでしょうか。言葉が、まさに意味が私の心を癒し続けるのです。私は子供のころはいじめられっこだったし、両親はとっくの昔に死んだし、今は底辺の肉体労働者ですけど、死のうなんて思ったことは一度もないです。子供のころから、この世界は生きる価値があると確信していました。

私は現代に満足していますが、他の人はそういうわけにもいかなだろうと思うのです。他人の心の奥底までは見えませんが、本書によると多くの人はギャンブルやドラッグや仕事の忙しさなどで心の空虚さを満たしているらしいです。それってかなり危ない綱渡りですね。神経症になる人が多いのも分かります。
今は精神科も、精神分析ではなくロゴテラピーという生きがいの回復という観点からの治療があるらしいです。それはそうですよね。いくら精神を分析したからといって、精神が癒されなければ治療の意味はないわけですから。

生きがい喪失の悩み (講談社学術文庫) [ ヴィクトール.E・フランクル ]
生きがい喪失の悩み (講談社学術文庫) [ ヴィクトール.E・フランクル ]





この著者の最初の設定は、日本語とは漢字とひらがなとカタカナの三重構造になっている、という事です。当たり前のような話なのですが、ここからの展開がこの本のすごいところです。

漢字が日本で使われるようになるのが7世紀半ば、ひらがなの完全な成立は10世紀初頭です。ひらがな成立以降の日本語は漢語と和語の二重並立言語として現在に至ります。私たち日本語民族は、今の場面は漢語的に振舞うべきか、和語的に振舞うべきかの決断を常時しなければならない、漢語と和語との間を往復する民族なのです。
さらに、喋り言葉と書き言葉というのは互いに影響しあっていて、文字が導入され書き言葉が出現する事によって、民族の歴史が堆積され始めます。
簡単に考えてしまうと、縄文時代や弥生時代には縄文語や弥生語があって、その語音に漢字やひらがなを当てはめたものが現在の日本語であると思ってしまうのですが、書き言葉が導入された後に日本語の歴史の堆積が始まったとするなら、縄文語や弥生語は今のものとは別のものであったろうというのです。言語の構造が違う以上、縄文人や弥生人は今の日本人とは違う思考パターンをしていたでしょう。縄文時代や弥生時代は現代からは感覚的に手の届かない、歴史の向こう側に沈んでしまっているのです。

言われてみれば当たり前の話なのですが、日本という国は漢字文化圏で、日本の歴史は漢字との格闘の歴史だという事です。

この歴史観は様々な事に応用できる予感がします。例えば本居宣長論。本居宣長は漢語をさかしらとして排除し、昔からある日本のみを「美しい日本」として強調しようとします。しかしこの態度は日本語の漢語和語二重構造を理解しない理論となるわけです。
もう一つ例えを出しましょう。丸山真男の「日本の思想」。丸山は「日本の思想」で、
日本人の中には様々なイメージが並立して存在していて、その時代に応じてふさわしい観念が喚起されてくる。戦前と戦後の転換はその現れである、
といっています。しかしこれを突き詰めて考えれば、漢語と和語二重並立構造を持った日本人の必然的な結果とも言えます。

どうでしょう、この論理の切れ味のすばらしさ。

日本語や日本人は平安中期の宮廷女性世界の空間から始まったのですね。日本で女性の強い理由も分かります。女性の解放された度合いが文明進歩のバロメーターだとするなら、日本は世界の最先端ですね。




近くにあるワタミに5歳の子供と2人で行ってきました。

7522ワタミ
株価 1128円
配当 10円
PER 赤字
PBR 2.36倍
株主優待 100株でワタミグループで使える500円券が12枚、6000円分が年二回

ワタミの業績はかなり厳しくて、今期の中間配当はありませんでした。ブラック企業問題と人手不足で今期の業績はかなりきびしいです。株価もかなり低迷していて、100株で配当が1000円、優待が12000円ですから、単純総合利回りは11%を超えます。
ただここの株主優待券は制限があって、1人1000円分までしか使えません。前期までは休日の前日は株主優待券を使用できなかったのですが、今期からその制限はなくなりました。業績が悪いからごめんなさいという事なのでしょう。

2人で行けば2000円まで、ぐるなびのクーポンを入れても2500円までしか使えません。大人2人で2500円というならキツイですが、小さい子供と行けるなら十分な金額です。

徳富蘇峰は「八重のさくら」に登場していて、これは蘇峰関係者にとっては画期的なことであったと、徳富蘇峰記念館のお嬢さんが言っておられました。

徳富蘇峰 終戦後日記 『頑蘇夢物語』学術文庫版【電子書籍】[ 徳富蘇峰 ]
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徳富蘇峰の「吉田松陰」は明治26年発表です。


徳富蘇峰は民権論者から国家主義者に転向したということで、現代においてはあまり人気がないです。しかし、蘇峰の「吉田松陰」を読むかぎりかなりの名文家で、蘇峰の本があれば、また読んでみたいですね。


この「吉田松陰」という本は、コレ反則だろ、というくらい吉田松陰自身の文章からの引用が多いです。蘇峰が当時の背景を丁寧に語っては松蔭の文章をドーンと押すという繰り返しです。

やっぱ吉田松陰はいい、というのを体感させてくれます。

松蔭を所詮テロリストだと簡単に判断する意見もありますが、それは現代の価値観が絶対正しいという見地から過去を判断しようという、ある種の想像力不足の結果です。

現代の価値観は絶対正しいのでしょうか。個人にとって生きる意味とはなんなのでしょうか。もう現代には生きる意味なんていうものはないのでしょうか。お金を稼いで、いい生活をして、いい女とセックスをすればそれは生きる意味になるのでしょうか。
松蔭は、弟子に生きる意味について聞かれてこう答えます。
「生きる意味が分からないなんていうのは全くぼんやりした考え方だ。そんなことでは何百年生きても満足しないぞ。ぼんやりしている人にははっきり言うしかないな。
人生わずか50年、なにか腹にいえるようなことをやって死ななければ、成仏もできないぞ。いかに生きるかではなく、いかに死ぬかを考えろ」

これはたくましい日本の実存主義です。このような生き方をする人はかっこいい。私もこうありたい。
吉田松陰はすごいし、徳富蘇峰はうまい。


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丸山真男座談セレクションは戦後から1993年までの丸山が参加した座談会をセレクトしたものです。


丸山真男は「日本の思想」を色川大吉に批判された事があります。色川の丸山批判をざっくり要約すると、
「何故丸山はヨーロッパエリートのいいところと、日本の大衆の悪いところを比較して、日本をこき下ろすような事を書くのか。そのような態度はフェアではない」
ということになりますか。


丸山真男座談セレクションを読むにあたり、丸山の大衆観というか常民観に注目してみました。
1960年ぐらいまでは知識人と一般大衆との間に完全にラインを引いています。
これが1965年になると、少し変化が見られます。
丸山が言うには、
イギリスは身分制度が確固としていて、大衆とエリートが分離している。大衆は個別的なことを考え、エリートは普遍的なことを考えるものであるだろうが、しかし日本はその辺があいまいだったりする。政治家や新聞社の上層部は酒を飲んで女におさわりすることが普遍だと思っている
だそうです。
1993年になると、
大衆の位置づけは非常に高い。大衆の勃興というものは基本的に肯定する。ただ町の大衆、町のおっさんに対するやりきれなさは残る
というほど大衆に譲歩しています。

時代が変化するにつれて、丸山も変化するのですね。1993年、丸山自身こう言っています。

僕なんか精神貴族主義と言っていますが、育ちからいうと中の下です

丸山真男は中の下の貴族らしいですよ。自分で言っていますから。
私は丸山が貴族主義だからダメだというつもりはありません。丸山が譲歩した後の民衆観には納得するものもあります。私の会社でもおじさんたちはパチンコで勝っただの競馬で負けただの野球がどうとか、そんな話ばかり。変人と思われても損なだけですから、一応話は合わせますが、私も「町のおっさんに対するやりきれなさは残り」ます。女やギャンブルではなく、彼らもう少し普遍的な話はできないものか。

結局色川大吉の丸山批判というのは、時代を先取りしていいところを突いていたというこのになるのではないでしょうか。


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