magaminの雑記ブログ

「首折り男のための協奏曲」は、題名に協奏曲とあるし、文庫本の裏の解説に、

「二人の男を軸に物語は絡み、繋がり、やがて驚きへと至る」

と書いてあるので、伊坂幸太郎らしい連作短編集なのかと思っていたのですが、実際に読んでみると、短編を寄せ集めた「短編集」でした。





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【「首折り男のための協奏曲」 あらすじと流れ】

「首折り男のための協奏曲」は以下の7つの短編から成っています。

1 首折り男の周辺
2 濡れ衣の話
3 僕の舟
4 人間らしく
5 月曜日から逃げろ
6 相談役の話
7 合コンの話

短編集ですから、「首折り男のための協奏曲」には、7つの短編を合わせた全体としての意味とかはないです。

首折り男というのは、首を折って人を殺すという技を持った殺し屋のことです。この首折り男がメインで出てくるのは、1 首折り男の周辺 2 濡れ衣の話 の二つの短編だけです。

3 僕の舟 は、首折り男のアパートの隣に住んでいた初老夫婦のかつての恋愛話でした。夫婦の奥さんの方が、探偵黒澤に自分の昔の初恋の人を探してもらうという内容です。
「僕の船」は、首折り男のスピンオフみたいな話なのですが、重要なキャラクターのスピンオフなら分かるのですが、首折り男の隣に住んでいたオバサンのスピンオフですから、話全体がどうしても地味になってしまっています。

4 人間らしく は、クワガタ好きの作家が、探偵黒澤にクワガタの生態についていろいろ語るという内容です。
クワガタはひっくり返ってしまうとなかなか元に戻れないらしいです。クワガタを飼っている作家は、クワガタゲージをたまに見て回って、ひっくり返ったクワガタを元に戻します。

作家は思うのです。

自分は、クワガタにとってどこからともなく現れて助けてくれる神のような存在だろう。だから、人間にも勧善懲悪の神のようなものがいるのではないか?

簡単に考えすぎでしょう。人間とクワガタは違うでしょう。

5 月曜日から逃げろ は、7つの短編の中で唯一なぞ解きミステリー形式になっていて、読む価値があります。

6 相談役の話 は、ちょっと感じの悪い金持ちの二代目を怨霊がとっちめる、という話でした。ただ、金持ちの二代目が感じが悪いと言っても、金持ちだから周りからチヤホヤされて育ったとか、イケメンだから女の子にもてるだとかで、しょぼい主人公にとって感じが悪いというだけです。

しょぼい主人公は、金持ちの二代目が羨ましくて、探偵黒澤を使って彼の不倫の現場を押さえようとするのですが、感じが悪いというだけでお金を使って人を陥れるというのはどうなのでしょうか。

伊坂幸太郎は、女性の不倫には寛大ですが、男性の不倫には厳しい傾向があります。

7 合コンの話 は、3対3のマジ物の合コンの話です。合コン現場に首折り男がニアミスするのですが、あとから書き加えたのではないのかというレベルのニアミスで、首折り男は「合コンの話」と関係はないです。

合コンで、人間の価値は見た目か中身か、という話になります。見た目というところで話が落ち着きます。しかし3人の男の中で一番さえない男が、実はプロのピアニストで、ピアノを弾いたら滅茶苦茶うまくてみんなを感動させます。やっぱり人間の価値は中身だよね、という所に話が落ち着くわけです。

おかしくないですか?

ピアノがうまいということが、人間の見た目の価値なのか中身の価値なのかの検証が必要でしょう。見た目はショボいけれど、ピアノを弾かせたらすごいかもしれないから、人は見かけで判断してはいけません、というのでは、世界を簡単に判断しすぎでしょう。


7つの短編を順に説明しましたが、分かるように、7つの短編はほとんど独立していて、互いの関連性はかなり希薄です。

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夫子(ふうし)の道は忠恕(ちゅうじょ)のみ

とは、

「先生の道はまごころのみ」

という意味。


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しかしこれは孔子の言葉ではなく、孔子の弟子の曾子の言葉である。
里仁第四の十五の全文をあげてみる。


子曰わく、参(しん)よ、吾(わ)が道は一(いち)以(もっ)てこれを貫く。  
曽子(そうし)曰わく、唯(い)。  
子出(い)ず。  
門人問いて曰わく、何の謂(いい)ぞや。  
曾子曰わく、夫子(ふうし)の道は忠恕(ちゅうじょ)のみ。  


孔子が

「一(いち)以(もっ)てこれを貫く」

と言っているのを門人が理解できなかったので、孔子の言葉を曾子が分かりやすく言い換えて

「夫子(ふうし)の道は忠恕(ちゅうじょ)のみ」

と言っているわけだ。



これ正直、孔子の言葉と曾子の言葉が全く同じであると考えてしまうと、論語を読んでも全く面白くない。二つの言論のどこがどう異なっているのか、を考えてみるのが楽しい。

では、
 
「一(いち)以(もっ)てこれを貫く」 

の解釈なんだけれど、簡単に考えると、孔子は一つの信念を持ってこれを押していく、みたいなことになると思う。 しかし、このように考えると、後のつながりがおかしくなる。まず門人は、なぜこのような簡単なことがわからないのか?  

さらに、 曾子が、

「夫子(ふうし)の道は忠恕(ちゅうじょ)のみ」

 すなわち、

「先生の道は、まごころとおもいやりだ」 

と言ったときに、孔子の発言と曾子の発言との整合性が取れていない。曾子の方が、いいこと言っちゃってるみたいなことになっている。 

曾子というのは孔子の弟子の中でもかなり優秀な部類だ。論語の中での曾子の発言を見れば明らかだ。

 孔子の発言の上をかぶせて、曾子の、「夫子(ふうし)の道は忠恕(ちゅうじょ)のみ」という言説は歴史に残った?  本当にそうなのだろうか? そもそも、孔子の「吾(わ)が道は一(いち)以(もっ)てこれを貫く」という言葉を、簡単に考えすぎていないか? 

一以てこれを貫く、一以てこれを貫く、一以てこれを貫く。  

一って本当に一つの信念という意味なのか? 一って、ただ一という意味ではないのか? そもそも私たちは、なぜ一を一だと思うのか?   それは、私たち個人がそれぞれ一体性を持って、一がどこにあっても一だと認識できるからだろう。 

子供に聞いてみよ。
 
彼ら彼女らは、1+1=2ということは分かっている。しかし1万+1万=2万と言えるかは怪しい。 それは、彼ら彼女らに1がどこまで行っても1だという確信がないからだ。なぜ、その確信がないかというと、彼ら彼女らには、いまだ自分が自分であるという自己同一性が与えられていないからだ。これは笑えない話で、大人になっても、1が1であると確信できず苦しんでいる人が多いと思う。1が1であると確信出来れば、すなわち、自分が自分であると確信できれば、ブランドの時計を腕に飾ったり、美人の彼女を連れて歩いたり、仕事の出来る振りをしたり、自分よりトロいやつを求めたり、そんな必要はないのだから。   

一以てこれを貫く、というのは、現代的な言葉で言うなら、自分の自己同一性をてこに、世界の自己同一性を確立する、自分と世界との間の道を貫く、という意味ではないか。 はっきり言って壮大な話なのだけれど、論語には巨大な何かを受け止める力があるよ。  
一以てこれを貫く、と言った孔子の巨大な思想を、夫子の道は忠恕のみ、と曾子が分かりやすく説明した。 このように考えてこそ、論語の正統な読み方だろう? 



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PKは、「PK」「超人」「密使」の3つの短編から成る連作短編集です。「PK」と「密使」では同じ時期の同じ人物が書かれています。しかし2つの世界は微妙に異なっています。その異なっている理由が、「密使」で語られる、という構成になっています。

【「PK」あらすじ】

1 
サッカーワールドカップアジア予選で、小津は何らかの組織によってPKを外すように圧力をかけられます。しかし小津は、子供のころに見たヒーローを思い出し、自分もあのヒーローにたいして恥ずかしくない行動をとらなくてはならないと考えPKを決めました。
2
小津が見たヒーローとは、マンションの4階から落ちた子供を受け止めた、ある国会議員でした。子供を助けた出来事から27年がたって、当の国会議員は大臣にまでなっています。国会議員は何らかの組織によって、一人の男を陥れるように圧力がかけられています。
3
国会議員が子供のころ、父親の浮気相手が家に電話してくるという事件がありました。母親は、台所にゴキブリが出たということで二階に避難していたので、浮気相手の電話を父親がとることができました。
4
ある小説家は、書いた原稿を意味不明に訂正するようにと、何らかの組織によって圧力がかけられています。

解説
国会議員と小説家は兄弟であると推測します。国会議員の父親は小説家であった、とあるので、圧力をかけられている小説家は国会議員の父親であると考えたくなりますが、時代の設定が合わないです。

国会議員の父親には子供が二人いたこと。
国会議員が弟の家に行こうとする場面があること。
国会議員の弟は田園都市線の沿線の一軒家に住んでいること。
「超人」に出てくる小説家が二子多摩川の一軒家に住んでいること。
国会議員の父親が語っていた「次郎君」に関する話を、小説家も自分の子供に語っていること。

以上の理由から、国会議員と小説家は兄弟であると推測しました。

【「超人」あらすじ】

1
国会議員に助けられた子供である本田は、事件から27年たって、警備会社のセールスの仕事をしています。本田は、三島という小説家の家を訪ねて、

「自分には未来の事件を予言するメールが送られてきて、自分は事件を未然に防ぐために、未来の犯人を殺して回っている」

と告白します。
2
本田青年の携帯に、かつて自分を救ってくれた国会議員のせいで1万人が死ぬというメールが送られてきます。
3
国会議員は、かつて助けた子供に27年ぶりに会うことにします。かつて助けた子供とは、未来の事件を予告するメールを受け取る本田青年です。
4
国会議員の父親は、昔、浮気相手からの電話を妻に出られて浮気がばれたことがあります。
5
本田青年は国会議員との会食中に、国会議員を殺そうとします。しかしギリギリのところで、国会議員のせいで1万人が死ぬというのは誤報であるというメールが届きます。

【「密使」のあらすじ】

過去に「特殊なゴキブリ」を送って現在をコントロールしようというSF的国家プロジェクトが存在します。そのゴキブリを送ることによって、国家の破滅が救えるという計算らしいです。

しかしどうやらこのSF的国家プロジェクトを超える別のSF的国家プロジェクトがあるらしいです。この超SF的国家プロジェクトチームは、特殊なゴキブリを奪うことによってゴキブリの過去転送を阻止することに成功します。

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【「PK」 意味の解説】

「PK」の3つの連作短編では、
「PK」で、SF的国家プロジェクトの実現しようとした世界が、
「超人」で、SF的国家プロジェクトの
実現した世界が、
「密使」で、二つの世界の差の種明かしが語られています。

しかし、この話の全体の意味とは何なのでしょうか? この話の何を面白いととらえればいいのでしょうか? 伊坂幸太郎は、どのようなつもりでこのような小説を書いたのでしょうか?

「PK」の中で、作家がこのようにあります。

「彼が心配しているのは、ミサイルが落ちて物理的な被害が出ること以上に、社会の秩序が失われることが、守ってきた法律や道徳が、実は張りぼてに過ぎない、と露わになることが、怖かった」

この社会の秩序は何によって与えられているのか、という問題になります。

宗教によって社会の秩序が与えられると考えられれば話は簡単です。一神教の巨大な神が道徳の根拠であるなら話は終わりです。

ヨーロッパ社会では近代に入り、神の存在が徐々に失われて、社会秩序の根拠が問題化してきました。フーコーは、パノプティコンという相互監視社会をグロテスクながらも理想社会であると提示しました。

伊坂幸太郎も、社会秩序の根拠が分からない以上、今ある社会秩序は張りぼてではないかと疑うわけです。

しかし、社会秩序が張りぼてだというのでは不安なので、
「いやいや、社会秩序はSF的国家プロジェクトによって維持されているのだ」
「いやいやいや、社会秩序は超SF的国家プロジェクトによって維持されているのだ」

ということを語る必要が出てきます。

このようなおとぎ話を聞いて、読者は社会秩序に幻想的安心感を持つわけです。

伊坂幸太郎の小説の主題というのは、社会秩序は何によって与えられているのか、というところに集約できます。

「オーデュボンの祈り」では、カカシによって社会はコントロールされていました。
「ラッシュライフ」では、高橋さんという宗教家が秩序の鍵を握っているらしいことがほのめかされます。
「モダンタイムス」では、無人格の国家が社会秩序を保証する根拠でした。

そして本作「PK」では、SF的国家プロジェクトが秩序の根拠であるとSF的回答がなされています。

伊坂幸太郎の小説はエンターテイメント性の中に哲学を秘めているのが面白いところです。

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「ポテチ」は短編集「フィッシュストーリー」に掲載されています。

【「ポテチ」 あらすじ】

今村と大西は恋人同士で、コンビで空き巣を生業としています。今村が男性で、大西が女性です。物語は、今村の視点で進んでいきます。

今村は、母親の血液型がAB型で、自分の血液型もAB型であることを知ってしまいます。メンデルの法則によれば、AB型の親からはAB型の子供は生まれないことになっています。

今村は、自分の生まれた病院で、自分に関する「赤ん坊のとりちがえ」が起こったのではないかと疑います。自分と同日に同じ病院で生まれた男たちを探し出し、業者に頼んでDNA鑑定をしてもらいました。

自分の母親だと思っていた女性の本当の子供は尾崎といい、プロ野球選手になっていました。
尾崎は現在、チームで控えに甘んじています。

今村の空き巣の師匠である黒澤はすべてを察します。黒澤は、尾崎が当日の試合にいい場面で代打に出られるように細工をして、今村とその母親、そして大西をプロ野球の試合に誘います。

今村は、子供がべそをかくように尾崎を応援します。そして尾崎は.......


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【「ポテチ」 意味の解説】

今村の人格描写の一点で優れた短編です。

今村は、チラシの裏にたわむれに三角形をいくつか描いていくうちに、三角形の内角の和が180度であることを発見します。
「車輪の再発見」のレベルを超えています。
自分の大発見を大西に伝えて、彼女に呆れられたりします。今村は万有引力の法則もかつて再発見したことがあるらしいです。

馬鹿なのかかしこいのか分からない所が面白いです。

今村は、自分が母親の本当の子供ではないことで運命を呪うのではなく、母親に同情します。取り違えさえなかったら、母親はプロ野球選手の子供を持つことができたのに、というわけです。

みんなで球場に尾崎を見に行っても、今村は尾崎がプロ野球選手であることを羨ましがったり、尾崎が今は控えに甘んじていることを冷笑したりすることはありません。

「おざきー、おざきー」

と叫び、尾崎の活躍を一心に願います。
すがすがしいです。

形から入る、という人がよくいます。この言葉は誰それという有名な哲学者が語っているから正しいんだ、とか、私と議論するためには聞いたこともない作家の見たこともない本を読んでこい、などというタイプの人です。

このような人たちというのはかわいそうではあります。この世界では、何かの知の体系に寄り掛かっていないとバカと判断されてしまいます。形から入る人たちは、バカだと思われることを酷く恐れています。

今村はこのような「形から入る人たち」とは対極にあります。
坂幸太郎の見事なフォルム批判(形から入る世界批判)だと思います。


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プラトンの洞窟の比喩の意味を簡単に解説すると、

「より合理的な考え方をしましょう」

みたいなことになります。





【洞窟の比喩とは】


ウィキペディアには、

「洞窟に住む縛られた人々が見ているのは「実体」の「影」であるが、それを実体だと思い込んでいる[1]。「実体」を運んで行く人々の声が洞窟の奥に反響して、この思い込みは確信に変わる。同じように、われわれが現実に見ているものは、イデアの「影」に過ぎないとプラトンは考える」

とあります。
知らずに縛られてしまった人は実体と影を区別することができず、与えられた影を実体と勘違いしてしまうことになるだろうということです。

簡単に考えてしまうと、自分の理解している世界は実体で、気に入らないあいつが理解している世界は影だ、みたいなことになってしまいます。
よくあるのは、韓国の考えている歴史は嘘を教えられた影の歴史であって、日本人である自分の理解する歴史こそが実体である、みたいなことです。

プラトンが語る「洞窟の比喩」というのは、実体と影との二元論ではないです。今いる環境が影だと思って実体の世界に飛び出してみたら、じつはそこも影の世界だったということがありうる、ということが、「洞窟の比喩」の話の中には含まれています。そのように考えないと、プラトンの「国家」という本の中に「洞窟の比喩」が存在する理由が分からなくなってしまいます。

「洞窟の比喩」とは、人間は影の濃い世界から、より実態のある世界へと移行し続けなくてはならないという、知性の決意表明みたいなものだと判断するべきです。


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【夢と現実の差とは】

影を夢、実体を現実、と当てはめてみます。

夢と現実というのは大体は区別のつくものなのでしょうが、厳密に夢と現実の何が違うのかと問われると、ちょっと難しいものがあります。

中国古代の「荘子」のなかに胡蝶の夢というのがあります。書き下し文で書くと、

昔者荘周夢に胡蝶と為る。栩然として胡蝶なり。
自ら喩しみて志に適えるかな。周たるを知らざるなり。 俄然として覚むれば、則ち蘧々然として周なり。
知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを。

とあります。
夢で蝶であるのなら、みじめな現実の自分より蝶である方がましなのではないのか、という含意があると思います。蝶である方がましだと思った瞬間に、夢と現実との区切りが重要ではなくなってくるわけです。

プラトンは「胡蝶の夢」のような、幸福感というか堕落というか、そのような考えを断固拒否するわけです。夢と現実との差というのは、プラトン的に考えれば、より大きくより整合性の高い世界観を上位に置くことによって判断されるべきだ、ということになるでしょう。

【プラトン的世界観の結果】

より大きくより整合性の高い世界観を求めるプラトン的思考は、最後はローマ帝国という巨大な歴史的帝国に結実します。より大きくより整合性の高い社会がより実体的であるとするなら、当時のヨーロッパ地域においてローマ帝国こそが正義の世界であるということになります。少なくても、紀元前後にヨーロッパ地域に暮らしていた人々はローマ帝国こそがより正義を含意していると考えていたでしょう。

中国も同じです。
「荘子」の胡蝶の夢的世界を孔子や孟子の儒家や韓非子などの法家は拒否して、より巨大でより整合性の高い社会こそが実体であるという儒家や法家の考えが主流になります。より巨大な整合性への希求が、秦をへて大漢帝国へと結実します。

【洞窟の比喩の現代的意味】

長い時間の中で大漢帝国やローマ帝国は現れています。
ですから、どちらが影でどちらが実体であるか、というのは長い時間の中で判明してくることがあり得ます。戦前、日本は中国を侵略したということになっています。私は侵略の事実を否定するものではありませんが、当時の日本人には、
「中国がいくら図体がでかいといっても、あんな黄昏の帝国の後に付いていっていたのでは、日本まで西洋の植民地になってしまうだろう。こうなったら、中国を切り従えて日本がアジアの盟主となって西洋と対決するべきだ」
という考えがあっても不思議ではない状況でした。

あれから100年、現状はどうなっているでしょうか。

まさに日本こそが黄昏の帝国。100年前、中国こそが影であると思われていたのですが、冷戦崩壊以降に中国は西洋に猛烈な勢いでキャッチアップしています。

これは中国が蘇ったというより、中国があるべき世界史的地位に復帰しつつあると考えることもできるでしょう。100年前の中国は、影の中に実体を潜めていたわけです。

何が影で何が実体であるかというのは、短い時間軸の中では簡単には知ることは出来ないのです。

【洞窟の比喩再び】

プラトンは洞窟の比喩を「国家」という本の中で語っています。洞窟の比喩とは、国家のような巨大な枠組みの中で語られてこそ意味がある、とプラトンは考えているのでしょう。

「国家」という本は、正義とは何か、という議論から始まります。
正義が何かから与えられるのであれば話は終わりです。私たちはアポロンの神々の言うことに従いましょう、ということになります。

しかしプラトンは、正義ほどの大切な観念は、その根拠を自らの中に持つべきだ、と考えて論理を展開します。
大切な観念は根拠を自らの中に持つべきだ、という思想の中に、より巨大で整合性の高い思想、社会体制、哲学こそが必要だ、という思考パターンが潜んでいます。
ですから「洞窟の比喩」は
単独で理解するべきものではなく、より巨大な歴史の中で理解するべきものでしょう。

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「はぐるとはめくるという意味です」

「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終押さえつけていた」


梶井基次郎の「檸檬」は始まる。
私の心を押さえつけている得体の知れない不吉な塊とは何なのか、とつい探求したくなるのだけれど、梶井基次郎はこのような思考パターンを軽やかに拒否する。






「肺尖カタルや神経衰弱がいけないのではない。また背を焼くような借金がいけないのではない。いけないのはその不吉な塊だ」

強いなって思う。

散歩コースに八百屋があってレモンを一つ買う。レモンの爽やかな香りを胸に吸い込む。胸を膨らませるレモンの香りと、胸を押さえつける不吉な塊。自分の胸をめぐるレモンと不吉な塊との相克。

無題



レモン強し。今日は気分がいい。京都の丸善に突撃しようかという。

そういえば私も大学時代は名古屋の栄の丸善によく行った。30年前の丸善というのは人を選ぶような大型書店で、選ばれたような気持ちになっていた私は4階の洋書コーナーでドイツ語の書籍をあさっていた。カフカとかギュンターグラスとかの原書。もちろんそんなものが読めるわけない。かっこつけて何冊も買ったのはいいのだけれど、結局カフカの「城」だけを辞書を引きながら新潮文庫の「城」と読み比べただけだった。

梶井基次郎は丸善に入って画本の棚の前に行く。

そうそう、丸善にはこんなのをいったい誰が買うの? という本が並んでいたりした。今でも覚えているのは、ヤコブス・デ・ウォラギネのキリスト教の聖者・殉教者たちの列伝である『黄金伝説』という本。分厚いハードカバー本で全5巻だった気がする。ちょっとパラパラめくってみた。犬好きの牧師というのがいて、犬に善行を施しまくった結果神の思し召しによって、この牧師は死後ただちに犬の天国に駆け上っていったという記述があった。
何もかもが謎だよね。

梶井基次郎は丸善に突撃したのはいいのだけれど、丸善の雰囲気にのまれて、また不吉な塊が胸を圧迫し始める。

「私は一冊ずつ抜き出しては見る。そして開けては見るのだが、克明にはぐっていく気持ちはさらに湧いてこない。しかも呪われたことにはまた次の一冊を引き出して来る」

だんだん本が積みあがってくる。30年前、私は引き出した本は元に戻しはしたけれど、梶井基次郎の気持ちは分かる。

そしてラスト。そういえばポケットには黄色いレモンがあったんだ。積み上げてしまった本の上にレモンをそっと置く。

「見わたすと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の諧調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた」

カーンと冴えかえるという。
カーンだよ。

レモンをのこして丸善を立ち去り話は終わるのだけれど、とにかくえたいの知れない不吉な塊にたいする気持ちのかぶせ方がすがすがしい。なかなかこうはいかないよ。

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